トラベル俯瞰力について日本人再考縄文文明

出雲と大和

 これまでに、出雲、宮崎、橿原を調査研究して、いろいろ情報を入手することができ、これまで入手した情報と照らし合わせてみると、それらから興味深い時系列的な関係が見えてきました。記紀に書かれた、伊邪那岐神(イザナギノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)、そして伊邪那岐神から誕生した、天照大御神(アマテラスオオミカミ)、月読命(ツクヨミ)、須佐之男命(スサノオ)、そして、天照大御神の孫とされる邇邇藝命(ニニギノミコト)。そのひ孫にあたる神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)こと神武天皇。一方で、須佐之男命の六代目の子孫とされる大国主神(オオクニヌシ)。神武天皇の皇后である媛蹈韛五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)は、事代主神(コトシロヌシノカミ)と玉櫛姫(タマクシヒメ)との間に生まれた子であるとされ、事代主神は大国主神の子であるとされています。記紀に書かれている話を追っていけば、これらの関係はわかります。そして、大国主神が祀られている出雲大社。一方で、大国主神と同一神である大物主神が祀られている大神神社(おおみわじんじゃ)。

 ここで、一つ気付きませんでしょうか? 出雲大社では、大国主神は本殿に祀られています。ところが、大神神社には本殿はなく、大物主神は背後にある三輪山(の磐座)に祀られています。出雲大社の背後には、素鵞社(そがのやしろ)があり、須佐之男命が祀られています。その背後には八雲山があります。元々、八雲山がご神体だったところに、須佐之男命が祀られて素鵞社ができて、その後、国譲りの際に、出雲大社の本殿ができたものと理解しました。これまでの調査で、日本列島に根付き始めた八百万神の信仰が、その後、山や岩をご神体とする磐座信仰へと移行して、人格化された神々が磐座に祀られて社ができて、その後に神々をご祭神とする本殿ができたと理解しました。そうしますと、この順番で時系列的に考察すれば、三輪山の磐座に祀られた大物主神の方が、出雲大社に祀られた大国主神よりも先に祀られていたと解釈できます。すなわち、古事記にある国譲りよりも先に、三輪山には大物主神が祀られていたことになります。

 これから想像するに、大和の地では、神武天皇が建国したとされる皇紀元年(西暦紀元前660年)よりも前に、すでに大物主神が信仰の対象になっていたのではないかということです。それが、本当に神として信仰されていたか、出雲に実在していた支配者がすでに大和の地を統治していたのか、いずれかは知る由もありませんが、その大物主神を信仰する人たちがすでに大和の地には住んでいたことになります。橿原遺跡を見ても、縄文時代の土偶や土器がたくさん見つかっています。いま、大和建国の歴史は、主に記紀に基づき、多くの研究者や考古学ファンによって,様々に解釈されていて、私もついつい、推理小説の結末を探すがごとく、ハマり込んでいるのですが、一つ重要なのは、天武天皇の命により、稗田阿礼(ひえだのあれ)の記憶を太安万侶(おおのやすまろ)がまとめて古事記を、そして藤原不比等(ふじわらのふひと)が日本書紀を編纂したという点です。

 いつの時代も、歴史は勝者により書き換えられますから、いわば勝者は善として、敗者は悪として書かれるものです。出雲が敗者だったかどうかは別として、それを考慮するとたしかに、記紀の中では、出雲の神々はあまりよく書かれていません。須佐之男命は暴れ者です。大物主神は、祟り神として三輪山に祀られていることになっています。そして、大国主神の子である、事代主神は国譲りの際には、素直にそれを認めたのに対して、もう一人の子である建御名方神(タケミナカタノカミ)は、高天原から使者として派遣された建御雷神(タケミカヅチ)と戦い、信濃国の諏訪まで追いつめられて降伏したことになっています。それで、大国主神は48mの高さもある巨大神殿を建立するのと引き換えに、国譲りを認めたとされています。建御名方神が祀られている諏訪大社の上社本宮には本殿がありません。背後にある守屋山がご神体になっています。一方、建御雷神は、鹿島神宮のご祭神です。ここにはもちろん本殿があります。建御雷神は藤原氏の氏神です。そして、その一族である藤原不比等が日本書紀を編纂しました。

 ここでの時系列的な仮説?に従えば、守屋山のご神体は国譲りよりも前に、すでに諏訪大社に祀られていることになりますが、はて、建御名方神との関係は? それらの関係がもっと知りたくて、今週は諏訪で調査研究していました。これからまとめて書きます。