神道と神社本庁
これまでに,出雲と橿原ならびに諏訪(宮崎も)を訪れましたが、やはり行ってみないとわからないことがたくさんありました。元々、これら三ヶ所は、記紀に示されているように、高天原にいる天津神と葦原中津国の国津神の関係で語られており、それなりに知識は得ていました。天照大御神の使者に従い、国譲りした大国主神がいる出雲大社、建御雷神との戦いに敗れて、諏訪に飛ばされた建御名方神。記紀に従えば、邇邇藝命が天孫降臨してから、神倭伊波礼毘古命が大和を建国して神武天皇となり、出雲や諏訪は大和に従属したようにも読み取れます。でも、三輪山の大神神社に祀られている大国主神と同一神である大物主神は、少なくとも大和ができる以前から祀られていたことは、本殿がなく磐座をご神体としている大神神社から推測できます。さらには、建御名方神が飛ばされたとされる諏訪には、その周辺に約5000年も前から縄文人が住み着いていました。橿原遺跡周辺でも、それよりもさらに昔の土器なども発掘されています。神武天皇が大和を建国したとされる紀元前660年よりも遙かに昔です。
縄文時代に始まった八百万の神信仰から、山や磐座をご神体にする信仰、そして社を建てて人格化した神々を神社に祀る信仰へとの移り変わりに基づけば、大神神社には本殿がなく、諏訪大社にも、後から上社前宮に本殿ができたものの、建御名方神を祀る上社本宮には本殿がありません。いずれも、山や磐座を信仰していたものと推測します。そうしますと、本殿に祀られている大国主神よりも、むしろ昔から、大物主神や建御名方神は祀られていた可能性があり、記紀の話と必ずしも一致しません。神殿に神々を御祭神として祀っている、いわゆる神道に対して、自然の神々を祀る信仰はそれよりも昔から続いていた、まさに八百万神の信仰でしょう。大物主神や建御名方神など、人格化された神々が山や磐座に祀られるようになったのは、それよりも後になるのでしょう。神社に神々が御祭神として祀られて、今のように、鳥居をくぐるときは一拝、手水舎で清めて、拝殿所で二拝二拍手一拝するような儀礼になったのも、実はごく最近のようで、明治維新以降に廃仏稀釈を経て神社は国家神道に位置づけらましたが、戦後に出来た神社本庁が多くの神社を管理するようになり、儀礼も統一されていきました。
そもそも、神社本庁は、「伊勢神宮を本宗と仰ぎ、全国8万社の神社を包括する組織として昭和21年に設立された」とホームページには書かれています。全国のほとんどの神社で天照大御神の分身である鏡が祀られているのも納得します。でも、神社にも政治的な思惑が働いていたことも知りました.戦後に神社本庁を創設したのは、実はGHQもしくはそれに後押しされた政治家?であったようです。戦前には国家と神道が一体化した国家神道として位置づけられた神道が、戦後、いわゆる政教分離のために、国家から独立した存在にされたようです。分かり易い例えで言えば、「神風特攻隊」などの戦中の指向が、GHQには受け入れられなかったのか、恐れを抱いていたのか辺りでしょうか。8月15日には終戦の日を迎え、毎年のように、靖国神社参拝で日本が政治利用しているがごとく、外国の一部の国から批判されていることも、この辺に起因しているのでしょう。神道が、本来どのようなものかを理解できるのは、残念ながら日本人だけなのでしょう。
ほとんどの日本人は、純粋な気持ちで、神社にお参りに行っているはずです。私もその一人です。そんなところにも政治的な思惑が働いてしまっているのは、残念でしかたありません。表面的な儀礼とは別に、それぞれお参りする神社の由来をよく知ってから、参拝することも大切であると、今回の調査研究では実感しました。ただ単に、著名な神社だから、出雲大社や諏訪大社を訪れるだけでなく、それらの神社が出来た背景には多層的に神々が関連していて、どんな神様を参拝しているかもよく念頭に入れて、参拝するべきなのでしょう。神道の始まりは、日本の自然や地形が深く関わっていることは間違いありません。特に地震や津波、火山噴火や洪水を引き起こす神々の存在を感じて、それら神々への恐れや畏敬の念を抱き、祈りを捧げるようになったのでしょう。したがって、日本という島国で生きてきた日本人にしか理解できない信仰です。
ところで、二拝二拍手一拝は二礼二拍手一礼と書くことができますが、同じ儀礼だと思っていた私は間違いでした。「拝」と「礼」ではお辞儀の角度が違うようです。「拝」は90度お辞儀をすることで、こちらが正式なお辞儀です。一方、「礼」はそれよりも緩いお辞儀を指しています。私は、「礼」よりもさらに緩いお辞儀をしていました。ただ、これを知ったからと言って、それを今後改めることはないと思います。私自身は、あまり表面的な儀礼にはこだわりません(もしかして神様は怒っている?)。やはり、何と言っても気持ちが大切かと。
