トラベル日記縄文文明

橿原・飛鳥その2(橿原遺跡)

 ホテルから歩いて10分くらいのところに橿原神宮(かしはらじんぐう)がありましたので、二日目の朝にまずはそちらを参拝しました。大和三山の一つである畝傍山(うねびやま)の南東麓には、神武天皇が初代天皇として即位された橿原宮ありましたが、遷都により空き地になっていたようです。橿原神宮はその跡地に明治23年(1889)に建立されました。第一鳥居があり、その奥に第二鳥居が見える参道を歩いて行くと祓所と手水舎があり、その右手にある南神門をくぐれば、砂利が引き詰められた広い空間の外拝殿がありました。外拝殿からは同じく広い空間がある内拝殿が臨めました。主祭神は、神武天皇と皇后である媛蹈韛五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)です。皇后は、事代主神(コトシロヌシノカミ)と玉櫛姫(タマクシヒメ)との間に生まれた子であるとされ、事代主神は出雲の大国主神の子。国譲りの際にそれを承諾したことを大国主神に伝えて、その後に出雲から消え去ったとされています。何が真実なのかは計り知れませんが、出雲と大和の深い関係は窺い知れます。外拝殿で二拝二拍手一拝して、来た参道を戻りました。

 橿原神宮の直ぐ北側に、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館がありましたので、そちらに向かいました。橿原神宮東隣の橿原宮跡には現在、競技場や野球場があり、そこを歩いていた途中に、橿原遺跡があったと書かれたパネルを見つけました。橿原宮があった時代よりも昔の土器などが多く出土したと書かれており、それらがこれから行こうとしている博物館に展示されているらしく、行く前から思わずワクワク感にしたりながら歩いていたら、博物館に到着しました。

 入口から入り受付で入館料を支払おうとしたら、65歳以上は無料と書かれており、県外でもいいのか聞いたら、いいというので、私はちょうど65歳なので、タダで見学することができました。全国的にみても、考古学研究の拠点である橿原考古学研究所に付属する博物館だけあって、展示物の数は圧巻でした。縄文早期から古墳時代までの橿原を初めとした周辺からの発掘物がたくさん展示されており、特に古墳時代に古墳から発掘された巨大な埴輪は見学者の目を引きつけるものがあるかと思います。ただ、私の興味は縄文時代後期から晩期に掛けての土器や土偶なので、埴輪の方はいまだ思考が辿り付いていないこともあり、詳細については省略して全体写真だけ二枚紹介します。

 ということで、私が特に興味を持った、縄文時代後期から晩期にかけて、出土した土器に焦点を当てて紹介します。橿原は現在、奈良の南にある盆地に位置していますが、縄文後期から晩期にかけては海面が今よりも高く、海岸線も内陸まで入り込んでいて、橿原は西に位置した湖や湿地帯の近くにあったことを知りました。たしかにGoogle Mapで橿原周辺を見てみると、いまでもため池のようなものがたくさん分布しています。橿原周辺には点在する多くの縄文遺跡が見つかっており、右の写真にある赤い点は縄文時代早期から中期にかけての遺跡で、青い点は後期から晩期にかけての遺跡です。橿原遺跡は後者に当たります。神武天皇が橿原の地に大和を建国した時よりも、昔からこの地には縄文人が住んでいたことが示唆されます。

 橿原遺跡からは約3000年前から2400年前くらいの遺物が発掘されています。まず、橿原だけに見られる遺物として、体の一部を形作った小さな土偶が多数出土しています。それは人間だけでなく、動物や何なのかよくわからない物などの発掘物もたくさん展示されていました。土偶は元々完全な形だった物が、意図的にバラバラにされたものと推測します。そこには何かしら厄除けか呪術的なものを感じました。たとえば、病気を治すために土偶に悪霊を閉じ込めたとか。あくまで、私の想像です。これまで見てきた縄文遺跡同様に、祭祀に繋がるような習慣を持った縄文人がすでに住んでいたと推測します。

 一方、土器は橿原で造られたと思われる物もありましたが、むしろ日本列島の各地から運ばれてきたと思われる物が多く展示されていたことは意外でした。それは北は東北、南は九州を広範囲の及んでおり、すでに縄文晩期に各地と交流があったことを示唆しています。日本列島全体で人の行き来があったことの証拠であり、海路で土器が輸送されてきたものと推測します。

 そこで、私の想像は膨らんでしまうのですが、記紀で書かれた神武天皇が初代天皇に即位して大和を建国したのは、皇紀によれば西暦に換算して紀元前660年とされています。たしかに橿原遺跡があったとされる約3000年前から2400年前の末期と重なってはいます。その末期に土器などが運ばれてきたとすれば、それもあり得るかと思います。ただ、バラバラにされた体の一部の土偶と神武天皇が関係していたのかといわれると、どうも噛み合いません。

 今回も橿原に来るに辺り、事前に田中英道先生の書籍「決定版 神武天皇の真実、扶桑社」を読ませていただきました。田中先生の書物はこれまでにも数冊拝読させていただき、学会の通説にはこだわらない独自の解釈で古代史を解説していて、たいへん参考になっています。今回の書籍にも、たぶん学会では受け入れられないような内容が書かれていましたが、端的に言えば、大和に王権を確立したのは、神武天皇ではなく3世紀後半から4世紀前半に実在した第10代天皇とされる崇神天皇であり、神武天皇はその前に橿原の地を統治していた邇藝速日命(ニギハヤヒ)に比定されるというものでした。先にも書いたとおり、神武天皇の東征については、研究者それぞれ主張が異なったりして、この辺の話は私にはまだまだ付いていけないところです。ただ、最近の学説では、崇神天皇が大和を最初に統治した実在する天皇であるというのが通説になりつつあるようです。

 邇藝速日命は、記紀では神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)こと、後の神武天皇が東征するよりも前に高天原から大和の地に降臨していた神であるとされています。この辺りの話はすでにたくさん書籍に書かれていますので、興味のある方はそちらを参照いただきたいのですが、邇藝速日命は最終的には大和の地を同じ天孫族である神倭伊波礼毘古命に譲ったとされています。一方、大和の地は昔から豪族たちにより支配されていたのも確かなようで、その代表が那賀須泥毘古(長髄彦、ナガスネヒコ)です。兄の五瀬命(イツセ)とともに神倭伊波礼毘古命が東征して、浪速から上陸しようとしたら、長髄彦の抵抗に遭い、五瀬命は長髄彦の矢に当たり亡くなったとされています。日に向かって進むのは良くないと今度は東側から攻め込んで、最終的には勝利することができましたが、その際に長髄彦は邇藝速日命によって殺されたともされています。

 田中先生の本によれば、大和の地を最初に統治した天孫族が邇藝速日命であり、記紀に書かれている神武天皇は邇藝速日命のことで、第10代崇神天皇までのいわゆる欠史八代と言われている神武天皇と崇神天皇との間に即位したとされる天皇は、邇藝速日命から崇神天皇までの間にいた統治者であるということでした。それを信じるとか信じないとかの前に、私自身も興味がますます膨らむ話であり、私なりの解釈もいろいろ出来そうな面白いところです。以前、日高見国のところでも書きましたが、長髄彦の兄である安日彦(アビヒコ)は長髄彦の死後に東北の地に亡命して、その子孫が、陸奥国の俘囚長となって北上にあった胆沢を中心にいわゆる蝦夷を事実上統治していた安倍頼良のルーツであるという説もあります。全体を俯瞰すれば、長髄彦は出雲系の縄文人をルーツに持つ豪族で、物部と呼ばれた一族の祖であると私は理解しました。

 出雲系の豪族がいたと思われる橿原の少し北にある三輪山には、出雲の大国主神と同一神である大物主神が祀られており、その麓にある纏向に大和王権を築いたのが崇神天皇であるとされていて、博物館を見学してから、そちらに向かったのですが、話が長くなってしまったので、また書きます。