松本・諏訪その2(諏訪大社)
2日目の朝、8:43発のJR篠ノ井線で諏訪大社に向かいました。事前知識で、諏訪大社は諏訪湖の周り4ヶ所に分散していることを知り、諏訪湖の南側に上社前宮(かみしゃまえみや)と上社本宮(かみしゃほんみや)、北側に下社春宮と下社秋宮があります。本当はこれらすべてを見て回れればいいのですが、電車・バス中心の移動ではかなり不便な配置になっています。元々は上社前宮があり、その後?、同時期?、それとも別々に?、上社本宮が出来て、下社は大和朝廷ができてから新たに追加されて建立されたようなので、行くのは上社のみにして、そこに近い駅が上諏訪駅でしたので、そこまで40分ほどで移動しました。上諏訪駅前からは、有賀・上社統合路線のかりんちゃんライナーという巡回バスが走っているのを事前に見つけていましたので、9:40分発のバスに乗りました。それにしても、観光地の巡回バスは、○○ちゃんが多いです。ちゃん付けにしていれば、とりあえず、親しみが持てますが、じいさんが乗るにはちょっと場違いか。
かりんちゃんが通過するバス停に近いのは上社本宮ですので、20分ほどバスに乗ってから、そこで降りました。それにしても、本日は最高気温35度ということで、日焼け止めを手と顔に塗り、バケットハットを被って、首には水で濡らした冷却タオルを巻いて、真空ポットにペットボトルの冷水を入れ、サングラスも常備して、ショルダーバックの外側ポケットには保温用シート(体に巻く銀紙のようなやつ)を入れて、塩分チャージ用のタブレットも買い、あとはハイキングウエアとトレッキングシューズで臨みました。これは、これまでの夏場旅行で得られた、経験上の猛暑対策スタイルです。それにしても、暑過ぎ。熱中症にならないように気を付けながら、本宮の方に歩いて向かいました。さすがに観光客も暑いせいか、あまりいませんでした。
鳥居がありましたので、それをくぐり、手水舎で清めて、境内に入りました。本宮の配置は少し複雑で、それぞれの由来はほとんど調べていませんが、諏訪大社のホームページに配置図がありましたので、拝借しました。諏訪大社に限らず、諏訪にあるほぼ全ての神社には基本、御柱が四隅に立っているそうです。本宮でも結構離れた場所にそれぞれ立っています。その内、一之御柱が鳥居の近くに立っていましたので、写真に撮りました。御柱はモミの木で、6年ごとに行われる御柱祭で、4ヶ所ある上社・下社のそれぞれ4本ずつ、合せて16本が新しく置き換えられます。その際に行われる御柱祭では、切り出したモミの木を山の斜面から曳き落としたり、何キロも曳きずり、周りの枝を取り除いているそうです。坂から曳き落とす際には、木の上に氏子(うじこ)の地元住民が命綱なしでしがみついて、一緒に滑り落ちます。毎回のように死傷者も出ているそうですが、これまでにも中止になったことはないようです。戸矢さんの著書にも書かれていましたが、そこには暗に「生け贄」の風習が、いまだ根付いているのではないかということでした。四隅に立てられる御柱は、結界を示しているとも書かれていました。ただ、この辺の話を書いていると、長くなりそうなので、興味がある人は自分で調べてみてください。ちなみに、次の御柱祭は令和10年と看板に書かれていました。




また、毎年4月15日には、上社で御頭祭が開催されて、75頭の鹿の頭、鳥獣や魚などがお供えされているそうです。今はさすがに複製の頭を使っているようですが、元々は血の滴り落ちる生首がお供えされていたと、戸矢さんの著書には書かれていました。さらには、人間を生け贄として捧げていた時もあったとも書かれていました。実は、御柱は生け贄としての人柱の代わりだという説もあります。なぜ、そこまでのことをする必要があったのか? 真実はともかくとして、私は意外と単純な動機だったのではないかと思います。それは、食物を与えてくれる大地の神に感謝する、という以上に、大地の怒りを静めるためであったと想像します。繰り返される大規模な地殻変動では、多くの人たちが犠牲になります。その犠牲を防ぐために、予め生け贄を捧げて、大地を鎮めようとしていた、とするのが素直な解釈かと私は思います。なぜならば、すでに前回にも書きましたが、諏訪湖は中央構造体と糸魚川-静岡構造線のちょうど交叉したところにあり、大地のエネルギーが満ちあふれているところだからです。
上社本宮には本殿はありません。諏訪湖の西側にある伊那山地の北端にある守屋山が、元々のご神体だったと思われますが、これについてもいろいろな説があります。神事が行われる幣拝殿の山側に、参拝者からは見えませんが、硯石(すずりいし)が鎮座しています。元々は別の場所にあったという伝承もあるそうですが、いずれにせよ、これはまさに磐座(いわくら)であり、ミシャクジ神と地元では呼ばれていた守屋山をご神体とする、まさに神が祀られていたのでしょう。でも、現在はそこから90度南側にある幣拝殿で神事が行われており、参拝者はその前にある参拝所から参拝します。私が行った時も、たまたまなのか神事が行われて、宮司が祝詞を捧げていました。そして、その前には鏡が置かれていました。これは現在の一般的な神社の形態と同じです。諏訪大社がこれまでの長い歴史の中で、神々が多重構造化して変遷していったことを示唆しています。上社本宮ではいま、御祭神は建御名方神ですが、守屋山ならびに硯石の隣に、後から上社本宮が建立されたと理解しました。なんとなく、出雲大社と似た、神々の多重構造になっています。


守屋山の山頂には、物部守屋(もののべもりや)を祀る磐座もあり、弥生時代以降、守屋神(モレヤシン)として信仰されてもいたようで、それを守矢氏がいまでもお祀りしているそうです。物部守屋といえば、大和に地で、物部氏の軍事氏族として君臨していた廃仏派の豪族で、疫病が流行るのは他国の神を引き入れたのが原因と、崇仏派だった蘇我氏との間でいざこざが起きて、仏像を海に投げ捨てたことで知られています。その後、丁未の乱(ていびのらん)で、崇仏派だった聖徳太子と蘇我馬子らにより殺害されました。物部守屋の子孫が守屋山に祀ったとされていますが、その真偽はよく調べていません。いずれにせよ、諏訪大社を紐解いていくと、いろんな由縁の神々が関わっており、奥が深すぎて理解が追い付かないのが正直なところで、もっと理解を深める必要がありそうです。結局のところ、御祭神の建御名方神とは元々どんな神だったのか? いろいろ諸説あり過ぎて、結局よくわからない、ということがわかりました。でも、大国主神とは関係ない?、古事記に書かれているのは造り話?、辺りのような気もします。
話が長くなってしまいましたが、上社本宮を後にして、上社前宮にも行きましたので、それについても続けて書きます。まず、上社本宮から上社前宮までは約1.5キロありますが、移動するためのバスはありません。かすかな期待でタクシーを探しましたが、いつものことですが、いませんでした。最初から覚悟の上でしたが、気温35度の中を、上社前宮まで歩きました。20分ほど歩いたら、鳥居の前まで辿り付きました。鳥居の近くに看板があり、そこには、元々ここに神殿があって、大祝(おおほうり)の居館があったと書かれています。大祝とは、御祭神である建御名方神の後裔で、ご神体とされた現人神のことで、様々な神事がここで行われていたとも書かれいています。その神殿跡のさらに山側に少し登ったところに、諏訪神社では唯一、本殿があり、その周りに四本の御柱が立っていました。ただし、この本殿は後から建立されたようです。現在の御祭神は、建御名方神の妃神である八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)です。


上社前宮も、元々は自然を御神体としていたものと推測しますが、ここに来て、猛暑で頭が段々回らなくなっってきて、本殿周りの御柱を一本ずつ写真に撮っていたのですが、たまたま修学旅行の中学生か、本殿前を占拠してガイドの説明をずっと聞いていたので、これ以上、いなくなるのを待つのは危険と判断して、本殿自体の写真は撮らずに、というよりは、撮り忘れました。そんな状態で、上社前宮を後にして、この後、上諏訪駅の隣の駅である茅野駅を経由して、尖石(とがりいし)遺跡史料館に行くことにしていたのですが、例によって、移動手段がありません。仕方なく、猛暑の中、約2.5kmの距離を歩きました。この先についてはまた書きます。






