弘前その2(縄文から津軽へ)
帰りの電車が午後だったので、3日目の朝に弘前市内を見てまわりました。私が止まったドーミーインの部屋は西側の角部屋で、西向きの窓から岩木山が一望できたので朝焼けの写真を1枚撮りました。これまで行った会津には磐梯山、盛岡には岩出山、そして弘前には岩木山が鎮座していて、それぞれの町の象徴であり、縄文時代のご神体であったことは容易に想像できます。岩木山もそのような威厳を放っています。


なんといっても、桜の名所である弘前城は弘前の象徴です。ホテルの比較的近くにあるので、お城の方に向かいました。目的の場所は、お城というより、お城の近くにある弘前市立博物館です。歩いて向かう途中には、明治から大正時代に掛けて建造された建物がいまでも保存されていて、そのような建物がなくなってしまった仙台からすると、羨ましい姿です。例えば、旧第五十九銀行本店本館(青森銀行記念館)や旧弘前市立図書館がありましたので、写真を撮りました。キリスト教宣教師や外国人教師などが住んでいた教会や館なども保存されています。肝心の弘前城ですが、現在大規模な改修工事の最中で、本丸のある場所は鉄筋の柱で囲まれていました。あと1年くらいは掛るようです。本丸の建物は別の場所に移動して、仮置きされていました。






市立博物館は、お城の外堀の内側にありましたので、中に入りました。入館料は500円です。縄文時代の発掘物は控えめの展示でしたが、岩木山の麓にある十腰内遺跡(とこしないいせき)では、幾何学的な文様の付いた土器が発掘されているようです。また、猪を忠実に再現した、猪形土器も発掘されて、本館のマスコットになっています。どこかで見たことがあると思ったら、昨年、多賀城歴史博物館で開催された「世界遺産 縄文」展にレプリカが展示されていました。岩木山の麓には、環状列石(ストーンサークル)が発掘された大森勝山遺跡もあります。一度行ってみたいと思っているのですが、簡単に行けそうもないので、まだ実現はしていません。そこで発掘された土器も控えめに展示されていました。





博物館はすでに何ヶ所も見学していますが、縄文時代に興味が偏っているため、それ以外はほとんど関心がなく、だいたい素通りしています。今回も同じように、フラフラと他の展示を適当に見ていたら、一つのパネルに目が留まりました。「13~15世紀に津軽安藤氏は十三湊を拠点とした日本海交易で繁栄し、日の本将軍(ひのもとしょうぐん)と呼ばれていた」と書かれたパネルを見つけました。それを見た瞬間に、弘前と八戸が相容れない理由を納得しました。陸奥国の奥六郡を俘囚長(ふしゅうちょう)として治めていた安倍頼時(頼良)とその子である安倍貞任は、1051年に始まった前九年の役で源頼義に敗れて亡くなりました。貞任の子は十三湊に逃れて、その後、安東と名乗り、その子孫が安藤になったと理解しました。のちの安東水軍の祖に当たります。その後の後三年の役で勝利した藤原清衡は平泉で奥州藤原時代を築きますが、その4代目に当たる藤原泰衡が、1189年に今度は源頼朝に敗れて、奥州藤原氏は滅亡しました。その時の論功行賞で、もともと甲斐にいた南部氏が北東北の統治を認められて南部藩を築きます。いま津軽と呼ばれている地方も、南部藩の支配下になりました。
1502年、南部光信が大浦城を築き、大浦為信が初代の城主になります。のちの弘前藩初代藩主津軽為信です。南部家のお家騒動の間隙をぬって、為信は南部藩からの独立を図り、津軽一帯の南部藩配下の城を攻め落としました。その後、1590年に豊臣秀吉から津軽領有を認められた、と展示パネルに書かれていました。すなわち、津軽=弘前、だったことを知りました。
