蝦夷の地図
現在の日本地図は、Google マップを使えば、道沿いの家まで鮮明に見ることが出来ます。江戸時代に、伊能忠敬が1800年から17年掛けて、日本の詳細な地図を作成したことは良く知られています。大日本沿海輿地全図と呼ばれている地図を拝借してきました。いまの私たちが見れば、日本の地図です。最近、「大河への道」という映画でも、主人公になっていました。あいにく、私はまだ見ていません。歩いて歩幅を数えながら、17年掛けて作った地図は今の地図とほとんど同じですから、まさに偉業といえるでしょう。
でも、それよりも昔に日本地図はすでに作られていました。それも世界に紹介されています。1658年、オランダ人のヨハネス・ヤンソニウス(ヤン・ヤンソン)が、新精確日本・蝦夷図(しんせいかくにほん・えぞず)という地図を作って、一つが九州国立博物館に所蔵されています。ネットで地図を探してみたら、見つかりました。蝦夷(えみし)を蝦夷(えぞ)として探検して、作成したとされています。でも何か、本当に探検したのかと思いたくなるような出来ではありませんか?日本列島の西の方が、いまの地図と比較して、やけに盛り上がっています。それはともかく、まず、北海道はありません。なんか、樺太とくっ付いています。それから、蝦夷と呼ばれていたところが、やけに狭い、もしくは北側がなくなっています。これをオランダで紹介して、それがヨーロッパでも知れ渡ったようです。
さて、これは何を暗示しているのか。1685年は江戸時代ですので、徳川幕府の時です。ヤンソンが勝手に蝦夷を調査したとも思えません。当然、徳川幕府の承認のもとで調べたはずです。そうしますと、当然、徳川幕府もこの地図を見ているはずです。当時は、徳川幕府も日本はこの程度だと思っていたのでしょうか?その頃は少なくとも、仙台があり、伊達藩もあり、その北にも、盛岡、秋田、弘前があったことは当然把握しているはずです。そうしますと、東北の北側をわざと切り取って作らせた? 奥州藤原氏やさらにそれ以前に安部氏が支配していた東北は、「黄金」(こがね)が大量に産出したことがわかっています。特に宮城県北部から岩手県にかけた黄金の取れた広い地域は、「ケセン」と呼ばれていました。いまの気仙沼の語源です。マルコ・ポーロが「黄金の国ジパング」として、西洋に伝えた黄金の話は、奥州藤原氏の平泉中尊寺が発祥であるようです。その結果、黄金を求めて、コロンブスやマゼランなどによる大航海時代が始まったとすれば、影響力は絶大でした。黄金に目を付けたスペイン人が黄金が産出する「島」を調査したいと、徳川幕府に願い出てそれが許可され、蝦夷を探検したとされていますが、「島」にばかり目が向いていたため、ケセンの存在には気が付かず、樺太まで行って、結局何も見つけられたかったとか。伊達政宗(それとも忠宗?)が対面したときに、「昔は取れたが、いまは取れません」と回答したとか。地図にある樺太とくっ付いた北海道が黄金の産地だと思ったのでしょうか?
ちなみに、黄金は「こがね」と呼び、「きん」ではないのには、その頃、鉄のことを「真金」(まがね)と呼んで、蝦夷では、実用的な鉄の方が金より価値があったからだという話もあります。高価な貴金属、石油や天然ガスのエネルギー資源があるところは、それを欲する力ある人たちによる草刈り場と化すことは、歴史の必然です。黄金がたくさん産出したことが、蝦夷、安部氏、奥州藤原氏がいた東北と、西の大和朝廷との紛争の火種となり、日本の歴史に大きく影響したことは確かなようです。そして、最終的には、蝦夷と呼ばれた東北は源頼朝により征服されました。大航海時代と称して、スペイン、ポルトガルを初めとした西洋列国が、東南アジアを植民地にしていました。日本でも、フランシスコ・ザビエルが来航して以来、その矛先が向けられていましたが、幸いにして江戸時代までは植民地になることはありませんでした。当然、徳川家康もそのことを知っていたので、鎖国を始めたのでしょう。そして、黄金の存在を隠すために、その場所がわからないように、わざと東北を切り取った地図を西洋に普及させたのではないかと、想像を巡らせています。