トラベル日本人再考日高見国

縄文の痕跡・一関

 蝦夷と蔑んで呼ばれた日高見国には、たくさんの縄文遺跡が発掘されています。平泉から一関に行って、一関駅からバスに乗って、厳美渓まで移動しました。せっかく厳美渓にも来たことですし、まずは厳美渓を見ることにして橋を渡って、厳美渓が見えるところまで行きました。厳美渓には以前にも2度ほど来たことがあります。2日前に台風が通過したこともあり、水量が増えているのではないかと思いながら、岩場から覗いてみました。大きな岩がゴロゴロ段状になったところを滝のように川が勢いよく流れていました。台風の影響はあまり感じられませんでした。厳美渓の名物の一つに、対岸からロープを伝って団子が滑り降りてくる、「かっこうだんご」というお店?がありますが、あいにくお盆中はお休みでした。

 厳美渓に来た目的はそれ自体を見るのではなく、近くにある一関市博物館に行くことでした。そこでまた橋を渡って、北側に続く道路を5分ほど歩いたところにありました。一関市博物館にも一度だけ来たことがあります。ただ、その時は何の興味もなく、ただ中をぶらぶら歩いて帰ってきただけでした。今回ははっきりした目的を持って再訪しました。一つだけ疑問に思うのは、何でこんなへんぴ?なところに博物館を造ったのかということですが、みなさんも行ってみるとわかります。それはさておき、入館料300円を払って、中に入りました。

 縄文遺跡は東北地方では至る所で見つかっていますが、一関周辺でも多数見つかっています。中でも花泉町で見つかった遺跡は縄文よりも古い旧石器時代の遺跡で、放射線炭素年代測定法によると、1万6千年よりも前の遺跡の可能性があります。津軽の大平山元遺跡が1万6千年前の縄文最古の遺跡ですが、それより昔の遺跡になります。ナウマンゾウなどの大型動物からニホンジカなどの中・小型動物の骨が多数発掘されており、それらを解体した場所と思われる居住跡も見つかっているそうです。

 縄文の痕跡を探索に来た一関市博物館ですが、多くの賢人を輩出したところであることを今回訪問して知りました。江戸前期に和算を創始した関孝和(せきたかかず)の流れを組む千葉胤秀(ちばたねひで)、杉田玄白(すぎたげんぱく)が著した解体新書の不完全な部分を改訂した「重訂解体新書』を著した大槻玄沢(おおつきげんたく)など、私も初めて聞く名前ですが、一関では有名な話のようです。さらに大槻玄沢の次男、大槻磐渓(おおつきばんけい)、その三男の大槻文彦(おおつきふみひこ)の三氏は大槻三賢人として地元では称えられ、一関駅前に銅像があります。あいにく写真は撮っていません。興味のある方は調べてみてください。

 このような賢人を輩出する背景に密接に関連しているだろうと思われることに、日本刀の源流があります。蕨手刀(わらびてとう)と呼ばれる日本刀の祖型が東北地方ではたくさん発掘されており、中でも岩手県は群を抜いています。日本刀が反っているのは、馬上で走行しながら戦うことを想定しているからで、良質の鉄と大型の馬を産出していた東北地方で、いわゆる蝦夷が使っていたとされています。蝦夷(日高見国)の英雄である阿弖流為(アテルイ)も使っていたのでしょう。時代劇などの合戦で見られる騎馬武者の原型が、ここから始まったことは間違いないでしょう。

 大和朝廷から蔑まれた蝦夷ですが、大和朝廷ができる遙か昔の縄文の時代から培われた高度な技術が日高見国にはすでにあったことがうかがわれます。それに目を付けた源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼしてから、それら技術を鎌倉に持ち帰り、騎馬武者主導の武家が大和朝廷に代わって日本を支配していったのかもしれません。別の言い方をすれば、頼朝は日高見国の技術をパクった? いまの時代も何となく同じようなことが起きているように私は思います。