人生について日本人再考日高見国縄文文明

神々と自然

 昔(今も?)、アメリカに入国する際の入国カードで、宗教についての項目があり、そこで無宗教と記入すると、入管で散々聞かれるという話を聞いていたので、私は無宗教信者にも関わらず、Buddist(仏教徒)と書いていたことがありました。でも、日本人は私だけでなく、かなりの人が自分は何も信仰する宗教はないと思っていませんでしょうか?でも、無宗教信者とは裏腹に、正月は神社へ初詣に行っておみくじを引いてお守りを授かり、お盆は仏壇前にお供えをしてご先祖様に線香をあげ、クリスマスは教会のミサに行ってからケーキを食べて、大晦日は年越しそばを食べてからお寺の鐘を付いたりと、節操のないような人生を歩んでいるのも事実です。でも、先にも書いた通り、日本人には生まれながらにして、八百万の神信仰が根付いています。そして、ヤハウエも、イエス・キリストも、アッラーも、みんな八百万の神の一人であると本能的に思えてくるのだと私は思っています。

 島国の中で春夏秋冬を毎年経験しながら、季節ごとに違う収穫物を食べて暮らしていた縄文人は、火山の噴火、台風・大雨による洪水、地震や津波の被害なども経験しながら、収穫物を与えてくれる自然に感謝し、天変地異を起こす自然に恐れを抱きながら、自然に畏敬の念を持つ八百万の神信仰が生まれたのでしょう。そして、それが1万年以上の年月を掛けて、縄文人の遺伝子に組み込まれていったと私は思っています。その遺伝子を受け継いでいる日本人は、本能的に自然を大切にします。自然を好んで破壊しようなどとは思いません。なぜならば、大地に根付く木々や草花、鳥や獣、魚や貝など、すべての生きとし生けるものには神の力が宿っていると思っているからです。まさに自然を崇拝する日本独特の民族宗教です。日々の暮らしの中で、意識することなく八百万の神を信仰しています。したがって、日本人は無宗教信者ではありません。

 長い年月を掛けて、神が宿る山や岩のご神体や樹木のご神木を祀る神社が造られて、それが神道に発展していったと想像します。日本列島の約80%は今でも森林で覆われています。自然を大切にして自然と共存するという、日本人にとって至極普通の生き方が、もしかすると他国の人たちには良く理解できないのかもしれません。他国では、自然は支配するものだとして教えられてきた証拠があります。その典型例は都市の砂漠化です。たとえば、チグリス・ユーフラテス文明やエジプト文明があった中東地域は、なんとなく砂や石の文明という印象があり、砂・土色のイメージがありますが、実は昔は緑で覆われていたようです。木々を燃料として伐採し続けたことにより、緑が枯渇していって、いまのような砂漠になったということを、シャレド・ダイヤモンド教授は著者である「文明崩壊」に記していました。

 日本の大地に黒いパネルを敷き詰める人は、日本人ではないのか、もしくは日本人の心を見失ってしまった人でしょう。私も各地に旅行に行きますが、田んぼや畑が黒いパネルになり、わざわざ山の木まで伐採して敷き詰めているのを見ると、がっかりするのを通り越して、憤りを感じます。何万年と続いた貴重な自然の大地を人工物に置き換えているわけです。どれだけ金儲けに繋がるのかは知りませんが、大地に宿る神々がお怒りになっていませんでしょうか。そんなわけないだろうと思うかもしれませんが、最近、急に日本中のあちこちで熊が出没しているのが、たまたまエサ不足だけで片付けられることなのか? 私はふと、熊が猟師と出くわして、食料になるため殺されるかどうかを猟師と相談していたとされる、遠野に古くから伝わる民話を思い出しました。現代人はその能力をすでに失っていますが、熊にはまだ備わっている能力だとしたらどうでしょう。日本中にいる熊同士が以心伝心して、自然を破壊する人間たちを懲らしめてやると決めたとしたら? そんなわけないだろうと思いますか?

 だからと言って、それなら熊の駆除はまかりならん、という論理にはなりません。人間の命が危うくなってしまったからには、もはや熊との戦争状態にあるとの認識です。どこかの元県知事も言っていましたが。