日本人再考日記趣味と勉強

知の伝承

 いま私が勤務する大学では、国際化に邁進して、留学生もたくさん受け入れています(ほとんどが中国人ですが)。インターナショナルになり、あちこちで外国語が聞かれます(ほとんどが中国語ですが)。日本の大学の知名度を上げるために、教員一丸となって、粉骨砕身しています。ただし、幸か不幸か私はすでにその蚊帳から外れています。国際的に優れた業績のある研究者をこれから招聘して、国際競争力をますます向上させようとしています。そんな中で、私がつくづく残念に思うことは、せっかく国費を投入して研究開発した最新技術が、海外にどんどん流出していることです。また、すでに起きていることですが、後継者がいなくなって技術が伝承できずに、国内ではその研究が途絶えてしまっているものもあることです。留学生を国費で受け入れることが国際化や多様性だとして、日本国民の税金が使われていることに、国民は納得しているのかどうか、それを世論調査することもないでしょうが、そもそも、一般国民はほとんど関心がないのかもしれません。

 私が40年近く研究開発してきた、いわゆる「技術」もあと1年でお蔵入りしそうな状況です。こればかりは後継者がいないと、どうすることもできません。日本の伝統技術も、若手後継者不足で、いずれ途絶えてしまいそうな今日この頃です。さらに、長年貯めてきた研究の貴重な知識まで、途絶えてしまいそうな状況にもなっています。それはなぜか? 短期的に研究成果を高めることが要求されている現在、インパクトファクターの高い国際Journalへ自分の研究を発表して、その被引用件数を稼ぐ競争にさらされています。また「高額」な研究費を獲得するために、日夜、翻弄しています。なぜならば、それが研究業績になるからです。どうしてこんな環境におかれているかという背景については、ここでは触れません。たぶん、その環境に置かれている研究者も、そんなことを考える余裕はないか、疑問も持たずやっているか、承知の上でやっているか、それぞれかと思います。技術や知識の伝承に力を入れるよりは、新しいことをどんどん考えろ(そしてこっちに寄越せ)ということかと解釈します。過去を振り返れば、昔、日本も他国の技術を散々真似したこともたしかです。

 私が知っている昔の偉い先生方は、暇だったのか、本当に自分の好きなことばかりやっていました。そのため、研究をしたい先生は研究に明け暮れして、教えることが好きな先生はたくさんの講義を持って、学生に教えていました。講義用の教科書を執筆する先生も結構おりました。研究では、一つアイデアを思い付くと、そこから大きく発展します。アイデアや独自の発想がないと、研究者として大成することはできません。いま高く評価されている研究者は、言うまでもなく自分のアイデアを持っている人たちです。それではその人たちが、教科書や専門書を書こうと思うか、といえば、たぶんそんな面倒なことはしたくないと、まず思うでしょう。これらを書いたところで、研究業績として高く評価されることもありません。ましていまは、短期的な成果が求められているため、昔の先生のように、呑気に?教科書を書こうなどとは思わないでしょう。

 それでは、何で私が教科書兼専門書を書こうと思ったのか。実は、2年前までは、まったくその気はありませんでした。ご多分にもれず、インタ-ナショナルに邁進していました。でも、私の研究室が完全閉鎖されることが1年前に決まり、はて私が40年近くコツコツ積み上げてきた研究成果は、このままお蔵入りなのか、と思った時、万一、技術は途絶えても、そのための知識は途絶えないようにしなければならない、と思ったのがきっかけです。「知の伝承」を強く意識しました。これまで習得した知識、講義資料、研究成果は、それぞれ個々のものがすでに、ホームページや研究者SNSなどで公開されています。ただ、私の論文や資料もほとんどが英語で書かれています。誰のためにそうしていたか? それは世界中の研究者や技術者の役に立つためにそうしていました。それに対する疑いの余地は、5年前まではまったくありませんでした。

 でも、いまは違います。これらの知識は、我々日本人に伝承しなければならないと強く感じています。さもなければ、日本の知はどんどん失われていきます。私が40年近く研究して溜め込んだ知識とともに、私の研究成果をこの1年で日本語にしてまとめたものが、今回出版した書籍です。知の伝承ということを意識しなければ、たぶん教科書出版など考えなかったでしょう。どうぞ、この知を後世の日本人に伝承のほど。