火焔土器
先週、学会で長岡に出張したついでに、火焔土器(かえんどき)が発掘された馬高遺跡(うまたかいせき)にある馬高縄文館に行ってきました。長岡駅からバスで40分?くらいのところにありました。長岡は花火で有名ですが、信濃川の河川敷から打ち上げられます。馬高遺跡も信濃川と深く関係していたのだろうと想像します。馬高縄文館の入館料は200円です。馬高遺跡は縄文中期の、いわゆる非農耕型定住生活をしていた縄文人の集団生活拠点だったようです。たくさん遺物が出土していますが、ここではその詳細は省略します。興味のある方は調べてみてください。火焔土器は1936年に近藤篤三郎さんが発掘した深鉢形土器で、この名前は近藤さんが名付けました。火焔土器というのは発掘された1つの深鉢形土器に付けられた固有名詞だったことを知りました。したがって、火焔土器と呼べるのはその1個だけで、それ以外に発掘された類似の土器は、「火焔型土器」と呼ばなければならないようです。
火焔土器もしくは火焔型土器は、その形からいまでも学会などでその用途などが議論されているようです。近藤さんが最初に発掘した際には、土器に付けられた模様が火炎のように見えたので、そのような名前を付けたのでしょう。その火炎という印象と共に保存されてきたものなので、どうしてもその印象で見てしまいます。一般的には、煮炊きに使われたといわれています。その証拠として、土器内部に焦げた煤の後が見られる土器もあるそうです。そんな火焔土器に美的なものと感じたのが、太陽の塔の作者で有名な岡本太郎だったと、縄文研究の第一人者である小林達雄先生の本で知りました。その小林先生も、火焔型土器は生活用品ではなく、何か物語を表現している文化的遺産であると主張されています。実物を見るのが一番速いのですが、土器の淵には生活用品にしては有り余る模様が施されています。仮に水を汲む道具だとすると、水を分けるときに難儀するでしょう。それでは煮炊きに使ったのかとしても、写真ではよく分かりませんが、中を覗くと、底の方が結構狭まっていました。中に物があまり入らない構造になっています。
近藤さんは淵の模様が火炎に見えたようですが、私にはあまり火炎のようには見えません。私が煮炊きに使う土器を作るとしたら、淵にある突起やトゲトゲ模様はむしろ邪魔になるので付けないでしょう。でも、4ヶ所にある突起部分には穴が空いていました。そこに棒を指せば釣り上げることはできそうです。淵の部分だけでなく全体に模様が付いており、やはり祭祀などの道具として使われたのではないかと想像します。岡本太郎が芸術品としての価値を見いだしたように、いまでもそのように見える土器を縄文時代に作っていた縄文人は、間違いなく文化的な営みをしていたと私は思います。みなさんも何に使われていたのか想像してみてはいかかでしょう。