お散歩コース紹介日本人再考日高見国

涌谷・黄金山神社

 日高見国の記事もほぼネタ切れなので、そろそろまとめてまた出版しようかと考えているところですが、一つだけまだ気になっているところがありました。それが、涌谷です。涌谷は宮城県の石巻と大崎の真ん中辺りにある広大な農地が周りに広がる町です。涌谷伊達家が住んでいた涌谷城があり、桜の季節には、多くの花見客で賑わうところだと知られています。私も以前、1度だけ桜を見に行った記憶があるのですが、何年前のことかすっかり忘れました。今回は、あいにく桜のシーズンが丁度終わったタイミングでしたが、先週の土曜日にまた行ってみました。ただし、今回は黄金山神社(こがねやまじんじゃ)を見るのが目的でした。JR東北本線で仙台から小牛田まで乗り、その後、石巻線に乗り換えて、2駅目が涌谷です。涌谷は無人駅のようで、駅に着いてワンマンカーの電車を降りる際に、スイカで支払いしようとしたら、スイカは使えないと言われ、涌谷で降りた印を付けた紙を貰い、仙台駅で精算してくれと言われました。

 駅から黄金山神社までは3キロくらいあるので、タクシーに乗ろうと思ったら、案の定、1台も止まっていません、タクシー乗り場に地元のタクシー会社の電話番号が書いてあったので、そこに電話しました。10分ほどしたら1台やって来て、それに乗って向かいました。駅からは高低差がない平地の道路を移動して、金色?黄土色?の大きな鳥居が見えてきて、そこが黄金山神社の入口でした。タクシー料金を1550円支払ってタクシーを降りて、まずはその鳥居をくぐりました。この鳥居はあくまで後から造った案内用の鳥居のようで、それをくぐったら、境内の歩道が長く続いていました。そのすぐ横には、史跡黄金山産金遺跡と記された石碑が立っていました。そうなんです。以前もすでに書きましたが、聖武天皇が仏教に帰依して東大寺の大仏が造られて、その鍍金に涌谷の金が使われたことが記録に残っています。

「涌谷(わくや)」は、砂金の土層から砂金を取るための洗い取り作業で、谷が沸きかえっているところから、付けられた地名であると、これも涌谷町のホームページには記載されています。大仏の鍍金用の金が足りなくて困っていたところ、タイミングよく陸奥国小田郡から黄金(こがね)が出土しました。東北地方では、黄金がたくさん産出されて、それを知ったマルコポーロが西洋に、ジパングとして言い伝えたとも言われており、そのきっかけになったのが、涌谷で産出された黄金であったとすれば、実は大航海時代のきっかけを作った世界的な出来事だったとも言えます。ただ当時、大和ではまだ、黄金はいわゆる、お金としての価値よりは、仏像を鍍金して極楽浄土を地上に再現することで、貴族が死後、極楽浄土に昇天することができると信じた、仏教思想に由来したものでした。大和朝廷の貴族が黄金欲しさに、陸奥国に触手を伸ばしていたのが事実のようです。

 入口の鳥居をくぐった先には、長い参道が続いていました。参拝客はひとりもいませんでした。参道の先には階段があり、その部分に本来の鳥居がありました。そして、階段を上ると,その先に、小さな社殿が建っていました。いつもはお賽銭も入れずにただ、写真を撮って帰ってしまうのですが、今回は参道を歩きながら、何か?を感じて、社殿まで吸い込まれるように進み、お賽銭を入れて鈴を鳴らして、二拝二拍手一拝していました。なんか不思議な力に導かれていたのかもしれません。

 以前も書きましたが、越中守だった大伴家持(おおともいえもち)が万葉集に歌を謳っています。その石碑がありました。表面が荒れているためよくわかりませんが、写真を拡大するとたしかに次のように書かれています。

須売呂岐能 御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知能久夜麻爾 金花佐久

わかりやすくすると、

天皇の御代栄えむと東なる陸奥山に金花咲

すめろきの みよさかえむと あずまなる みちのくやまに くがねはなさく

と書かれています。

 来た参道を戻りながら、ほたるの里という案内版などを見つけました。夏になると蛍がたくさん飛んでいるのでしょう。そして、入口の鳥居をくぐって境内を後にしました。すぐ左側には、「天平ろまん館」という記念館が併設しており、その外には砂金採り体験コーナーがあり、二家族ほど砂金を採っていました。入館料500円を払って記念館の中に入りました。そこには、砂金が産出した当時の関連情報や、大仏の建立方法などの説明が展示されていました。人はほとんどいませんでした。ひとつ、以前も書きましたが、陸奥守だった百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)が、

陸奥国始めて黄金を貢る。ここに幣を奉りて幾内・七道の諸社に告ぐ

と陸奥国小田郡から黄金が出土したと続日本記には書かれていますが、やはり、663年に天智天皇がいまの朝鮮半島で起きた白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐・新羅に大敗した際に滅亡した百済の王族が大和に亡命して、その後、その子孫が陸奥守になっていたことを確認しました。

 帰りは、黄金山神社から歩いて、涌谷駅まで戻りました。桜は散っていましたが、代わりに新緑が目立ってきて、山はグラデーションしていました。私の好きな景色です。途中、江合川に掛った橋からは、右手に涌谷城が見えました。あいにく桜はみんな散っていました。写真は撮りましたが、特にここには載せません。左手の河原には、菜の花がたくさん咲いていました。こちらも写真を撮りましたが、どうも写真にすると雰囲気が伝わりません。こちらも載せるのは止めました。土曜日ということもあり、歩いた通り沿いのお店はほとんど閉まっていて、人気(ひとけ)のほとんどいない涌谷でしたが、涌谷駅から石巻線に乗って、小牛田まで行き、その後、東北本線で仙台まで帰りました。帰りは、涌谷駅にあったキップ販売機でキップを買って、仙台駅ではちゃんと行きの料金も精算しましたので、念のため。

 これで、日高見国の探索は一段落したように思いますので、これまで書いた記事をまとめることにします。