日本人再考趣味と勉強

日本語

 最近は、国際化、国際化と、大学の講義も英語でやるべきという風潮がますます強まっています。一方で、現在のAI技術の進化から、近い将来、わざわざ自分の頭で英語を理解しなくても、同時通訳してくれるツールは確実に出現すると思っています。英語の文章はすでにかなりの精度で日本語に翻訳することができます。したがって、英語教育の位置づけが今後変わってくることは間違いありません。そんな時代にあって、たとえば、高校の授業や大学受験の試験科目で、英語を必須にする意義が何なのか再考することになるでしょう。単に、受験の敷居としての位置づけのみか、それとも教養か。自分の頭で英語を理解すれば、翻訳ツールも要りませんから、それが一番良いのは確かですが。

 ここでは英語教育の有無を議論するつもりはありません。むしろ、英語にばかり目が向いてしまい、肝心の母国語が疎かになってしまうことを危惧しています。私がこんなことを書くこと自体、憚られるのは、私自身が若い頃は母国語としての日本語に対して、何の感慨もなかったために、国語が嫌いな人だったという過去があります。でも、歳を取って、それなりにいろいろ知れば知るほど、母国語が日本語でよかったと感じています。英語も、高校以来、50年近く読み書きを続けたお陰で、翻訳なしでも、ほぼ支障はありません。重宝しているのは、ネットやSNSで出回っている英語の投稿をすぐに読み取れるところかと思います。一方で、会話は未だに不自由しているというのが正直なところです。これはたぶん、とある英語ネイティブな先生が言っていたことですが、「乞食でも英語を喋る」ということが象徴しています。その環境に長くいれば、誰でも会話できるということかと思います。アメリカに10ヶ月滞在しただけでは、その域には至りませんでした。

 英語の文章を書いているときに苦労するのは、日本人なら普通に使っている、敬語や微妙なニュアンスを伝える方法が分からない点です。単にまだ知らないだけかもしれませんが、たとえば、目上の人に出す文章では、「○○先生にはたいへんお世話になりました。心から感謝申し上げます」を英語にGoogle翻訳すると、”I am extremely grateful to Professor ○○ for all his help. I am truly grateful.”となります。でも、何か変なのは、まず、「○○先生」の先生に当たる英語がありません。”Teacher”と訳すのも変です。この場合の「先生」には、目上の方という意味が暗に込められていることは、日本人なら自然に理解できますが、どうも英語ではそれができません。それ以外の翻訳も、「お世話に」が、” for all his help”なども何か違うだろうと思います。AI技術が進化して翻訳ツールができたとして、これらの微妙なニュアンスを伝えるためには、少なくとも、他国語にはない、これら日本語の表現方法をよくプログラムしないとだめでしょう。

 以前、オノマトペについて書きましたが、日本人は無意識に、川がさらさら流れる。風がピューピュー吹く。ブタがブーブー鳴く、ガキがギャーギャー騒ぐ、などを使います。これらは単に、流れる、吹く、鳴く、騒ぐだけでなく、その度合いや特徴などが込められています。他にも、五七五で構成されている俳句や短歌からは、その意味だけでなく、情景や季節、さらには音(無音という音も含む)も感じることができます。「静けさや 岩に染み入る 蝉の声」、「古池や 蛙飛び込む 水の音」などは、「静かな所で岩に染み入るような蝉の声が聞こえる」、「古い池に蛙が飛び込む水の音が聞こえる」と比べて、伝わってくるものが全然違います。というか、日本人には普通にその違いがわかります。何気なく使っていた日本語ですが、改めてその奥深さに最近気が付いてきた私です。本当に日本人でよかったと思っています。

 そんな中で、これまで英語で執筆していて、既にネットで公開されていた資料や論文の内容を、日本語にして改めて教科書・専門書として出版したのにも、そんな貴重な知識を失わないように「日本人」に伝承したいという思いからでした。日本語が話せることを誇りに思い、八百万の神々が与えてくれた日本語を大切にしましょう。