仙台再発見日記

定禅寺通の変遷

 4月20日に仙台古地図を入手したことはすでに書きました。見るとこいずれも、「あ、そーなんだ」、「なーるほど」、「何これ」の連続です。手始めに、定禅寺という名前が付いた通、「定禅寺通」について、その変遷を見てみました。定禅寺通といえば、エミリオ・グレコの夏の思い出(体を捻ったブロンズ像)や冬の光りのページェントなどで、最も仙台を象徴する場所です。でも、通りに寺の名前が付いているのに、肝心の定禅寺が何処にもありません。そこで、天和3年(1683)、明治13年(1880)、昭和3年(1928)、そして昭和27年(1952)の仙台古地図に記された定禅寺があったとされる現在の勾当台公園付近を並べて比較しました。でも、なかなかこれが難儀な作業でした。それぞれの地図は必ずしも北が上になっていません。まずは必要な部分の写真を撮りました。次にその写真をPowerpointに挿入しました。それぞれの地図の角度を揃えるために、奥州街道が南北線から15度傾いているので、ルーラーを使って奥州街道の角度を合わせました。なお、何で15度傾いているかを知りたい方は、こちらをご覧ください。次に傾いた地図の写真から必要な部分をスクリーンショットしました。そして、ショットした4枚の図を改めてPowerpointに挿入して、それぞれの図の尺度を合わせてトリミングして並べた図が下です。

 天和3年の地図を見ると、字は逆さまに書かれていますが、たしかに定禅寺があります。定禅寺の左隣には何か細長の広場?のようなものがありますが、とりあえずそれは置いておいて、定禅寺通は定禅寺の入口に繋がっています。ただそこから、なめらかに右カーブになって南南東の方に向かい東三番丁通になっています。東三番丁通の東側には定禅寺だけでなく、観喜院、千手院という寺院が並んでいました。先に調べた四ツ谷用水の支流を地図の上に水色の線でトレースしてみました。1つは奥州街道に沿った支流ですが、もう一つは現在の市役所を経由して、定禅寺通、東三番丁通、元寺小路に沿って流れる支流です。市役所から下流については以前調べたルートと完全に一致しました。ただ、市役所へ至るルートが、以前仙台市の資料から調べたルートですと、どうしても屋敷内を通過しなければなりません。したがって、水色の?を付けています。

 さて、明治13年の地図を見ますと、定禅寺は無くなっています。その跡地は陸軍病院になっていました。たぶん、明治になって廃仏毀釈により定禅寺が廃寺になり、その場所が官軍に没収されて、軍の施設に変わったものと思われます。その他の寺院も無くなっていますが、それについてはまた後日書くことにします。陸軍病院の左隣には宮城師範学校があります。明治以前、近くに養賢堂という藩校があったと勾当台公園には記されていましたので、なんらかの関係があるのでしょう。そして、その北側にはいまと同じ場所に県庁があります。

 続いて、昭和3年の地図を見ますと、定禅寺通が東側に延びているのがわかります。これは仙台市電の開通に伴い、勾当台通から定禅寺通を通って仙台駅に向かう路線を敷くのに伴って拡張されたようです。なお、地図中の赤線と赤丸は地図に最初から記されていた印で私が付けたものではありませんので、念のため。陸軍病院は別の病院(衛成?病院)と警察署に変わっています。宮城師範学校も図書館に変わっています。

 そして、昭和27年の地図を見ると、かなり様変わりしたのがわかります。まず、それまで定禅寺通を北端としていた東二番丁通と勾当台通は斜めに直結しています。なめらかなカーブを描いていた東三番丁通は定禅寺通を北端とする直線の通りなっています。定禅寺の北側にあった斜めの外記丁通はいまでもありますが、さらにその東側に広い道路が新設されて、上杉山通と東五番丁通が直結されて、現在の愛宕上杉通になっています。

 最後に現在の地図をGoogle Mapから切り抜いたものが下です。東二番丁通はほぼ直線になり、いまは仙台の幹線道路になっています。定禅寺があったと思われるところは、官庁の合同庁舎が建っています。広場?や宮城師範学校の跡には勾当台公園ができています。また、定禅寺以外の寺院跡には錦町公園ができています。ただし、ここから東側についてはまた別途調べて書くことにします。いずれにせよ、昔の面影はほとんどなくなってしまった、現在の勾当台公園周辺とそこを貫く定禅寺通でした。