刺青
いま刺青(入れ墨)は、怖ーいヤーちゃんがしているイメージがある日本ですが、海外ではファッションの一部のようにしている若者を私も時々見ます。そのような印象の刺青ですが、歴史の勉強をしていると、なぜか世界中に昔からその風習があったことがわかりました。身近なところでは、すでに書きましたが、4世紀に実在したとされる第12代の天皇、景行天皇の時代に、東方を視察した武内宿禰(たけしうちのすくね)が言った
東の夷中に日高見国有り。其の国の人男女並に椎結け身を文けて為人勇み悍し。是を総て蝦夷と曰ふ。亦土地沃壌えてひろし。撃ちて取りつべし
が日本書紀には書かれています。「身を文けて」が入れ墨をしていると現代語訳されています。つまり、蝦夷と呼ばれていた日高見国の人たちが刺青をしていたことを物語っています。どうして、痛い思いをしてそんな刺青をしていたかという根源的な理由はまだよく探求していませんが、私の知る限りにおいても、古代人がしていた刺青の風習が世界中で報告されています。
「世界遺産 縄文」展が東北歴史博物館で開催されていることを知りましたので、先日再訪しました。その内容については別途また詳しく書くことにして、その中でもっとも印象に残っているのは、東北の各地の遺跡で発掘された縄文土偶に、明らかに刺青の跡と思われる模様が刻まれていたことです。私の主観ではなく、展示物の説明にもその旨、記されていました。その一つが宮城県大崎市の根岸遺跡から発掘されています。このことから、蝦夷と呼ばれていた人たちが縄文人の子孫であることは疑う余地がありません。


どうして刺青をするのかは、諸説あるようですが、武内宿禰が言うように、現代では、勇ましく見せたり、自己主張が理由でしているのだろうと思います。でも、私が知る縄文人は、勇ましく見せる理由が見当たりません。しいて理由を考えれば、個体認識のための名前のようなものだったのか、もしくは祭祀などの信仰を目的としたのものだったと想像します。それはさておき、縄文人が刺青をしていただけで話が終われば、それだけのことですが、実は、世界中で刺青の習慣があったことが、たくさん報告されています。
身近なところでは、陳寿(ちんじゅ)が3世紀に記した魏志倭人伝には、倭国の倭人について、
男子無大小、皆黥面文身
と記されており、大人子供区別なく、みな顔面に入れ墨をしている、と記されています。魏志倭人伝には邪馬台国を訪問した記録が記されているとされてます。倭人、そして邪馬台国については、いろいろ議論があるところなので、今回はそれには触れませんが、刺青の習慣がある民族が倭国に住んでいたことが確認できます。さらに時代を遡れば、紀元前千年前頃にあったとされる周王朝は、「倭人」が建国したといまの中国でも定説になっています。さらに周王朝の祖とされる古公亶父(ここうたんぽ)の長男で、呉越同舟で知られている呉の祖とされる太伯(たいはく)は、呉を建国する際に「黥面文身」したと史記には記されています。魏志倭人伝に記された、まさに黥面文身です。当時中国大陸の広い範囲に住んでいた倭人は、黥面文身していたことになります。ちなみに、周王朝と羌(チャン)族との間には血縁関係があり、周王朝の軍師だった太公望で知られる呂尚(りょしょう)も羌族出身とされ、その娘が周王朝の創始者である武王に正室として嫁いだとされています。
羌族や苗(ミャオ)族と呼ばれている少数民族はいまでも、中国のチベットなどの山岳地帯などに暮らしています。その特徴は、きれいな刺繍でできた衣装を身につけていることです。刺青は体に模様を入れますが、刺繍はその代わりに服に模様を入れています。Y染色体ハプログループの分析では、羌族の約18%がDタイプです。苗族にも5%ほど分布しています。これらの民族は漢族により同化が進んでいると思われますので、昔はもっと割合が多かったと推測します。いまの中国では、もともと中国大陸に住んでいた倭人が日本に渡ったと、教えられているようですが、どうでしょうか? 少なくとも言えるのは,刺青の風習は周王朝が出来る遙か昔にすでに縄文人がしていたものです。Y染色体ハプログループDタイプは日本固有の遺伝子であり、現在の中国の大半を占める漢族はほとんどがOタイプです。刺青と遺伝子の二つのエビデンスを通して、「倭人」の本当のルーツを探ることができるかもしれません。
古代の刺青の風習は、古代エジプトやペルーなど、他でもたくさん見つかっています。世界で同時発生的に刺青が始まったのか、それとも関連性があるのか、これらについて大変関心があり探究心を駆り立てられます。それは、単に一つの風習だけの話ではなく、もしかすると巨石を使う文明の解明にも繋がるのではないかと、勝手に想像しています。はたして、横の繋がりもなく、完全独立した状態で発生し得るものでしょうか?
ちなみに現在、刺青の印象があまり良くないのは、罪人に入れ墨をする慣習ができてからだと推測します。日本でも、江戸時代には罪人に罪を犯したことがわかるように入れ墨をしていました。なんで、罪人に入れ墨をするのか?入れ墨された者を蔑むためだとすれば、もともと刺青を習慣としていた民族を虐げるようとする思惑が背景にあったのではないかと、私は想像します。刺青から始まったこの話ですが、実はもっと奥が深いのではないかと思っています。縄文人が世界中に移動したとされる都市伝説?に深く関係しているかもしれません。世界中の学界では、間違いなくタブーな話なのでしょうが、一般人が好き勝手に想像するのは自由かと。