伝統
私の職場でも、死語になりつつある「伝統」。みなさん、伝統と聞いて、何を思い浮かべますか?古くさいしきたりですか?それても面倒くさい取り決めですか? 100年の伝統を誇る・・・、千年の伝統ある・・・、そして、1万年以上続く伝統・・・。そうです。日本人の伝統は1万年以上続いています。世界中、何処を探しても、こんなに続いている民族や国はありません。そんな伝統が、死語になりつつあります。伝統は、その民族や国の歴史に他なりません。そんなに長い歴史を刻んでいる国は他にありません。はたして、こんな長く続く伝統が、途絶えてしまうとしたら、みなさんはどのように思われますか? そんな古くさいものは、何の意味もないと思われますか? どんどん新しくなる世界で、古くさい物はどんどん新しく置き換えていくべきだと思われますか?
「歴史を忘れた民族は滅ぶ」と、英国の著名な経済学者、アーノルド・J・トインビーは言っています。東日本大震災は14年前に起こりました。でも、そのときの記憶がだんだん風化しつつあります。バブルで好景気だった日本。そんな時代は夢の彼方に去って行きました。第二次世界大戦の記憶など、そもそも、経験した人自体がほとんどいなくなってしまいました。まして、それより昔のことは書物やネットで調べないと知る由もありません。柳田国男の著書、「先祖の話」には、亡くなった人たちの御霊は、もともと先祖代々住み着いている土地の近くに居て、子孫を見守っている、と書かれていました。そして、先祖の御霊を祀るしきたりが年中あったが、いまは年末年始やお盆くらいなったとも書いてありました。お盆休みに旅行している私も、ご先祖様がさぞかしご立腹されていることでしょう。柳田国男がこの本を書いた目的は、忘れられていく伝統を記憶したいという思い、そして、特攻隊として大戦で戦死した人たちの御霊への思いがありました。終戦直前に書かれた書籍です。
子供が御神輿を担いで町を練り歩いたり、お盆には公園で盆踊りをしたりと、いまでも伝統を引き継いでいる町内会もあります。あいにく、私の町内会では数年前に子供御神輿は廃止されました。子供自体が減ってしまったのが理由です。伝統を受け継ぎながら、伝承している地方の町や村はいまでもたくさんあります。小学校などでも祭りの踊りや和楽器などを教えたりしています。何のために、そんなことを続けているのか? 町おこしや観光目的もあるでしょうが、何のためにと言われれば、伝統の伝承に他なりません。「歴史を忘れた民族は滅ぶ」をもじって?「祭りを忘れた民族は滅ぶ」と言っていた私の知っている先生もおりました。東北でも、毎年、夏祭りが開催されます。ねぶた(ねぷた)、竿燈、仙台七夕、さんさ踊り、花笠踊り、など多くの観光客が集まります。そして、大曲花火など。これらも立派な伝統行事です。ただ、それらの歴史は縄文からというよりは、坂上田村麻呂が蝦夷(日高見国)に仏教を広めた802年頃からのようです。
それではそれより古い伝統はどこに残っているのでしょう? 縄文時代から続く伝統は、八百万の神信仰に他なりません。神道もそこに起源があります。遠野で伝わる伝説や民話なども、縄文時代からの貴重が伝承でしょう。ちなみに、妖怪伝説は、もともと各家々で祀られていたご先祖様への信仰が薄れてしまい、ご先祖様の御霊が長い年月を経て妖怪と思われるようになった、と「先祖の話」の中には書かれていました。伝統を忘れるということは、その民族の歴史を忘れることであり、そもそも自分は何なのかという、アイデンティティを失うことに他なりません。新しいことをどんどん取り入れるのは、人類が進化する上で、当然のことであると同時に、それでは古いことは忘れても構わないのかといえば、みんな同じ新しいものばかり追い求めていく結果、それぞれの個の起源がわからなくなり。個としての存在意義がなくなります。ロボットが居れば済む世界になります。
人間は、人と人があって始めて人間です。それぞれの人を識別するため、アイデンティティが不可欠です。国や組織でもアイデンティティが失われつつある今日、その行き着く先に何が待ち受けているのか?そんな国や組織はいずれ、滅んでしまうか埋没してしまうことになるでしょう。私の職場に限って言えば、そうなったらもう、いまの名称を名乗る意味もなくなります。全国同じ大学名にして、その一つとして仙台校と名乗ればいいだけです。伝統を忘れた人たちが行き着く先のように、私には思えますが、いかがでしょう?