トラベル日高見国

世界遺産・平泉その3

 これまた前回の続きです。中尊寺を見終わって、月見坂を下りながら帰ろうとしたら、坂を登るたくさんの観光客に遭遇しました。朝早く来て正解でした。途中、引き返そうと言っている人がいたり、お年寄りが途中で止まってしまったりと、坂を登るのが相当難儀な様子をいくつも見ながら、山門を出ました。さてこの後どうするかと思い、来たからには毛越寺には行かないと、と思い、平泉巡回バス「るんるん」というのが走っているので、時刻表を見てみたところ、巡回方向は一方向で、毛越寺に行くにはほぼ一周しなければならないことがわかりました。しかたがないので、ウオーキングコースもあることから、それを歩いて毛越寺に向かうことにしました。

 世界遺産平泉には5ヶ所の遺跡が登録されており、中尊寺、毛越寺の他に、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山が登録されました。残念ながら、それらを見る時間はなさそうなので、やめました。ちなみに、このうち無量光院は藤原氏三代秀衡が宇治平等院の鳳凰堂を模して、それよりも一回り大きなものを建立しましたが、あいにく焼失してしまい、いまはその跡地しかありません。あった当時は金色堂とはまた違った極楽浄土な雰囲気を醸し出していたのでしょう。

 さて、ウオーキングコースを毛越寺に向かって歩いていたところ、途中で意外なものを見付けました。疎水百選~照井堰用水~という看板です。よく読んでみると、秀衡の時代に磐井川の厳美渓上流から取水した水が通る用水を造って、毛越寺、無量光院まで疎水して、さらには水田を潤していたと書かれています。これって、まさに四ツ谷用水と同じです。850年前に造られたとありますから、四ツ谷用水よりも400年以上も前です。もしかして、伊達政宗はこれを「パク」ったのでしょうか。他にもあるのかどうかは知りませんが、たぶん、仙台城下町を造る際に、用水を町に巡らす発想を参考にしたのではないでしょうか?

 さらに歩いて行ったところに、平泉文化遺産センターがありました。先に書いた「藤原清衡と金色堂」の中で、藤原氏初代清衡が中尊寺を建立する際に書いた「中尊寺建立供養願文」を現代語に訳した平泉文化遺産センター館長の大矢氏(今の館長ではない?)がいたセンターです。入ってみたところ、平泉町立の施設のようで入場料は無料でした。あまり広くはありませんが、藤原氏の時代を中心に、その前の安部氏から続く、平泉の概要がパネル展示されていました。発掘された物も展示されていました。平泉に来たら最初にここに来るとその歴史の全体概要が把握できるかもしれません。

 さて、平泉文化遺産センターを後にして、さらに毛越寺に向かって歩きました。台風一過でまだ曇り空だったので、炎天下ほど気温は高くありませんでしたが、それなりの距離もあり、だんだん疲れてきた辺りで、毛越寺に到着しました。以前来た時の印象は、広い池はあるけど、後は何もないということを記憶しています。入口で拝観料700円を支払い、中に入りました。真っ直ぐ先に本堂があるので、歩いていたところ、途中に、また松尾芭蕉の歌碑がありました。

夏草や兵ものどもが夢の跡

 後三年の役で、藤原四代泰衡が源頼朝に敗れて、奥州藤原氏は滅亡しました。その後、約500年後に平泉を訪れた松尾芭蕉が、当地で亡くなったとされる源義経を偲んで読んだ一句だといわれていますが、「兵ども」ですから、義経だけではないような...毛越寺も秀衡が建立した当時は、浄土庭園を模した大泉が池と呼ばれる大池の周りには、たくさんの御堂が建ち並び、多くの僧侶が修行していたようです。あいにくほとんどが焼失してしまい、再建されることもなく今日に至っています。たしかに、見れるところは本堂と大きな池と、宝物堂だけな辺りが残念なところです。さすがに疲れてきて、このあと、一関に向かう予定だったので、宝物堂をぱっと見してから、平泉駅まで歩いて向かいました。