2011年3月11日

2011年3月11日

 以下は、とある学会に私が提出した調査報告の一部を再稿したものです。

 2011年3月11日は、共同研究の打ち合わせや大学院生のインターンシップの報告会などが予定されていた日で、民間企業の方々も青葉山キャンパス内に滞在していました。青葉記念会館の4階で、大学院生がまさにこれから報告しようとする直前に地震は起きました。これまで鳴ったことがなかった携帯電話の地震警報が突然鳴り出し、最初は何事かわからずにいたところ突然大きな揺れが発生し、宮城県沖地震がついに来たと直感しました。立っていることはできず机ははげしく移動し始め、会議室のブラインドや天井の照明が大きく揺れ出し、いまにも落ちてきそうなので天井を気にしながらしゃがみこんでいました。大きな円を描くような揺れが数分?続いた後、少し落ち着いてきたのでやっと終わったかと思ったその後、また大きな揺れが始まりそれが数分?続きました。体感で4、5分続いた地震が終わった後は、ブラインドが崩れ落ち、机が散乱している状態で、みな茫然と立ちすくんでいましたが、次第に正気をとりもどし建物外に避難し始めました。外は避難してきた人々がすでに多数いましたが、日頃から宮城県沖地震や火災を想定した避難訓練を実施していたこともあり、整然と非難していました。

 5分ほど離れたところにある職場の敷地に到着した時には、すでに皆さん外に避難している後でした。幸い建物からの火災は発生していませんでした。停電でしかも建物内には入れないため、地震の情報源は携帯電話だけでしたが電話は全くつながりません。そのような中で役に立ったのは携帯電話のワンセグでした。伝えられて来る情報はすべて驚愕するものであり、仙台は震度7とか、大津波警報発令で予想高さ6mとか、にわかには信じ難いものばかりでした。地震の当事者というのは、情報源も乏しくその状況を十分に把握できない存在であることを痛感しました。そのような中でも、避難訓練のマニュアルを作成して各担当が明確に割り振られていたこともあり、建物内の被害状況や避難者の情報は担当者から刻々と集められました。

 次第に小雪が降り始めだんだん寒くなってきた中を、どれくらい外に待機していたかよく把握できませんでしたが、2時間程度過ぎたころ被害調査の結果が出そろい、建物内外に多くの亀裂が発生しているものの、柱自体は大丈夫であることが確認されました。私の研究室が居住する建物は4階建のかなり古い鉄筋コンクリート造りの建物ですが、宮城県沖地震を想定して10年ほど前にすでに耐震補強工事を済ませていました。この工事をしていなかったら倒壊していたかもしれません。建物内への一時的な立ち入りが許可されたので、研究室の被害状況を把握するため各部屋を見回ってみたところ、本棚や食器類が散乱した状態になっており、かつ天井に設置されているスチーム暖房器の配管が破損して水漏れを起こし、二部屋ほど水浸しの状態でした。本棚等は宮城県沖地震に備えて壁へ固定されていたため一部は倒れる被害を免れましたが、部屋によっては固定器具も役に立たなかったようです。幸いだったのは、春休みに入っており研究室には学生がほとんどいなかったことで死傷者はいませんでした。建物自体が停電・断水の状態で使用不能となったため、各担当責任者以外は当面自宅待機となりました。

 私は普段バスで通勤していますが、交通がマヒ状態であるので徒歩で帰路を急ぎました。その途中、道路の至るところで段差ができ、また帰路を急ごうとする自動車の大渋滞が起きていました。自宅は公務員宿舎でしたが、幸い外見上の被害はなく、部屋の物は散乱したものの家族は無事でした。ただ、電気・ガスは止まってしまいました。唯一、水だけは使える状態でトイレが使用できたのは幸いでした。ちなみに仙台市内では、ライフラインがすべて止まってしばらく復旧しなかった地域もたくさんありました。

 暗くなっても明かりがつけられないため、ろうそくに火をつけ、灯油があるのにファンヒーターが使えないため、厚着をして寒さをしのぎました。いずれ来る宮城県沖地震に備えて携帯用ガスコンロ、1週間程度の非常食などは常備していたため、食糧には困ることはなく避難所にお世話になることも結局ありませんでした。しかしながら、ろうそくの火だけでは夜の行動は無理であることを悟り、明るい内に手持ちの食糧で食事を済ませて、暗くなったら床に入ることにしました。近隣に住む親戚も心配なので電話しましたが、まったくつながりません。また、テレビが見られず地震の被害もよくわかりません。しかたなく、ラジオと携帯電話のワンセグで情報を得ていました。東北地方沿岸での津波の被害が徐々に伝わってくるにつれて、これまで想定していた宮城県沖地震とは比較にならないほどの大規模な地震と津波が起きたということを理解しはじめました。携帯電話のワンセグは予想以上にバッテリーを消費して、充電分がなくなってしまい途方に暮れていたところ、乾電池用バッテリーがあることがわかり、家中の単3電池をかき集めてワンセグを再開することができました。

 電気は幸い2日後?には復旧して、暖房器具も使えるようになり、電気の有難さを痛感しました。ただ、ガスが結局1か月ほど使えませんでした。その間、お風呂に入れませんので、代わりに電気ポットでお湯を数回沸かしてバケツに入れ、それを水で薄めて体を洗っていました。ガスが復旧した後に入ったお風呂の有難さも忘れられません。物流が遮断されたため、スーパーやコンビニは閉店しており、避難所以外どこにも食糧がない状態がしばらく続いていました。自動車用ガソリンも次第に手に入らなくなり、移動の手段すら奪われはじめました。近所のスーパーが全面再開したのは地震の2週間後くらいでしたが、開店当初は私も寒い中、2時間以上並んで食べ物を買いあさりました。

コンビニにある公衆電話の前にできた大行列