日本人再考日高見国

陸奥国

 「みちのく」は東北地方を総称する呼び方ですが、陸奥国(むつのくに)を、みちのくとも読みます。したがって、みちのくは陸奥国と同意です。ただし、陸奥国と名付けたのは大和朝廷側であり、蝦夷と呼ばれた縄文人由来の人たちが住んでいた、いわゆる日高見国ではありません。「縄文人と蝦夷」で書きましたが、日本書紀に記された、「東の夷中に日高見国有り。其の国の人男女並に椎結け身を文けて為人勇み悍し。是を総て蝦夷と曰ふ。亦土地沃壌えてひろし。撃ちて取りつべし」と、4世紀の景行天皇の時代に東方を視察した武内宿禰(たけしうちのすくね)が言ったことから、大和朝廷が日高見国に触手を伸ばし始めて、支配したとされる地域を陸奥国と呼んだものと私は解釈しました。

 陸奥国の国府として、724年に大野東人(おおののあずまひと)によって多賀城が創建されたと、多賀城市ホームページには記載されています。これまで偽物ではないかと思われていた多賀城碑が本物であると認定されて、国宝に指定されました。今年は奇しくも、多賀城創建1300年に当たります。南門も再建されて、宮城県人としては喜ばしいかぎりです。

 さて、前回書いた「富士山噴火と地震」の中で、畿内七道地震は734年5月18日に起きました。これにより、聖武天皇が仏教に帰依して東大寺の大仏が造られて、その鍍金に涌谷の金が使われたと記録にはあります。涌谷町のホームページにもその辺が詳しく記載されています。鍍金用の金が足りなくて困っていたところ、陸奥守だった百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)が、

「陸奥国始めて黄金を貢る。ここに幣を奉りて幾内・七道の諸社に告ぐ」

と陸奥国小田郡から黄金が出土したと報告があったと、続日本記には書かれています(ただし、私はまだこれを読んだことはありません)。少し話はそれますが、「百済王」は朝鮮半島にあった国、百済の王族でしょうか。百済は、663年に天智天皇がいまの朝鮮半島で起きた白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗した際に、唐・新羅に滅ぼされていますので、その後、王家が大和に亡命したのでしょうか?この辺はまた調べてみます。

 また、越中守だった大伴家持(おおともいえもち)が、

「天皇の御代栄えむと東なる陸奥山に金花咲く」

と読んだ和歌が万葉集に納められているそうです。また、話がそれますが、これまで、万葉集だの古今和歌集だの、短歌や俳句の部類はてんで興味がなかった私ですが、このように歴史の背景と密接に関係があると思うと、見方が違ってきます。この辺も、今後はもっと探索したいと思います。前回も書いた通り、これをきっかけに大和朝廷がさらに日高見国に触手を伸ばしていったことはたしかでしょう。ちなみに、「涌谷(わくや)」は、砂金の土層から砂金を取るための洗い取り作業で、谷が沸きかえっているところから、付けられた地名であると、これも涌谷町のホームページには記載されていました。

 涌谷は当時、多賀城国府の支配下にあったとするのが、現在通説になっています。しかしながら、これはあくまで大和朝廷側の意向が働いた資料に基づく話ですので、そのまま鵜呑みにはしない方がよさそうです。なぜならば、蝦夷の英雄とされる阿弖流為(アテルイ)との戦いでは、大和朝廷側は散々、惨敗していることが大和朝廷側の資料からも示唆されます。この辺は次回以降、また書きます。