鉱山学部
現在、日本で唯一、鉱山の学部があるのは秋田大学だけです。現在の名称は国際資源学部です。以前は、東大、北大、九大にもあったようですが、地方大学で鉱山学部を有していたのは秋田大学だけです。私も名前は知っていましたが、珍しい学部があるなという認識でした。それが今回の秋田探訪でなぜ鉱山学部ができたのかがよくわかりました。秋田探訪三日目に、やはり行かねばと思い、秋田県立博物館に行きました。秋田から、奥羽本線に乗って北に向かい、追分という駅まで向かいます。15分くらいのところにあります。併走している男鹿線で追分まで乗りました。追分まではスイカが使えました。ちなみに、男鹿線は追分から分かれて男鹿半島に向かい、終点が男鹿です。残念ながら、今回は男鹿半島に行く時間はありませんでしたが、興味はありますので、いつか行ってみたいと思います。
追分駅を降りて、歩いて20分くらいのところに博物館はあるようなので、歩いていたところ、途中に金成農業高校がありました。造成中のようでしたが、大きくて立派に高校でした。たぶん、高校野球で寄付金などもたくさん集まっているのでしょう。そこからさらに数分歩いたところに、秋田県立博物館がありました。ひろい公園の中にあり、大きな池もありました。入場料は無料でした。
展示室に入って、最初に目に入ったのが、火山活動を示すパネルです。以前、「縄文人のふるさと日高見国」を書く際に調べたところ、東北地方にたくさん火山が分布していることを知りました。秋田県もその一つで、昔は活発に活動していたことが想像されます。そして、火山がたくさんあるゆえ、金銀銅などの希少金属を産出することも理解しました。その中でも、秋田では銀や銅がたくさん産出されており、鉱脈鉱床のパネルにもたくさん鉱脈の鉱床が示されていました。昨日寄った阿仁銀山もあります。火山活動が盛んだったゆえ、鉱床もたくさんあった秋田県ですが、昔は石油も産出していました。話には聞いたことがありましたが、全国一の産出量があったとパネルには示されています。



特徴的だったのは、産出された様々な鉱石の標本が展示されていたことでした。鉱山や油田が、戦後にその役割を終えて、閉山・閉田したため、いまでこそ、秋田が日本一の資源産出県であったことは忘れられていますが、明治から戦前まで日本の産業を支えていたことがよくわかりました。阿仁銀山ではドイツから鉱山技師が採掘に来ていたことなどから、鉱山の知識を蓄積して、鉱山技師を養成するために大学が必要になり、秋田大学には必然的に鉱山学部が造られたものと理解しました。
本来の私のお目当てである、縄文遺跡についても、たくさん展示されていました。遺跡は縄文時代以前からのものも発掘されており、ナウマン象やデスモスチルスという小型恐竜の骨も発掘されています。縄文時代のものと思われる土偶や土器は、東北地方の他の遺跡で発掘されたものとほぼ同様のものが秋田でも発掘されて展示さていました。伊勢堂岱遺跡で発掘された土偶と同じく、ユニークな造りの土偶や土器がたくさんありました。ただ、火焔土器などに比べれば、土器の造りは少し簡素な印象を受けました。




博物館から秋田駅に戻り、15時発のバスまで少し時間があったので、千秋公園横の通りをずっと歩いていたら、旭川のほとりまで着きました。川沿いには柳の木がたくさん植えられていました。居酒屋など飲食店がたくさんあるようですが、お盆ですのでみんな閉まっていました。また、別の機会に来た時には、旭川の西側も探索したいと思います、ちなみに、秋田県庁などもこちらにあり、夏祭りの竿燈もこちらで開催されているようで、仙台でいう国分町や定禅寺通りのように、秋田の町の中心は秋田駅から結構離れたところにあるようです。バスの時間になったので、バスに乗って帰りました。帰りは何事もなくスムースに仙台まで帰ることができました。補足ですが、高速バスの仙台ターミナルには広い待合室がありますが、秋田には残念ながらありませんでしたので、秋田駅の中でバスを待ちました。
日本の地方のことはついついその県にある町の規模だけで見てしまう傾向がありますが、仮にいまでも、鉱石や石油が秋田で産出していたら、秋田がいまどう評価されていたのか気になるところです。幸か不幸か、それらが獲れなくなってしまい、代わりに豊かな自然が残ったとすれば、そちらの方が格段にすぐれた資源なのかもしれません。