継之助と五十六
何か、時代劇のタイトルのようですが、継之助は、河井継之助(かわいつぎのすけ)のことで、五十六は言わずと知れた、山本五十六(やまもといそろく)のことです。後者はみなさん良く知っていますが、太平洋戦争時の大日本帝国海軍司令長官でした。前者は、戊辰戦争の時に幕府側に立って戦った武士である程度は知っていました。二人の共通点は長岡出身であるところです。今回長岡に行って知りました。さらには山本五十六が長岡藩と密接に関係していたことも知りました。河井継之助は長岡藩の家老になった藩士です。一方、山本五十六は、長岡藩家老山本家を継いで山本姓になったことを知りました。元々は、長岡藩士高野貞吉の六男として生まれました。五十六という名前は、高野貞吉が56歳の時に生まれた子供であることからそのように命名されたそうです。
長岡駅の近くに、河井継之助記念館と山本五十六記念館があったので、合わせて1時間ほどでしたが、見学しました。それぞれ、入館料は200円と500円です。おふたりの詳細を紹介するほど情報は得ていません。あくまで備忘録程度に書きます。河井継之助は、既得権者である家老などの反発を受けながらも、時代に合った藩政改革を訴えていた勘定方の藩士でした。その構図はまさに今どこかの県で起きている構図と変わりません。大政奉還後に起きた戊辰戦争では、幕府側に立って官軍側と和平交渉を試みましたが、受け入れられず、長岡城は官軍に攻め込まれました。ちなみに、戊辰戦争絡みの記事はこれまでにもいくつも書いてきましたので、興味ある方はホームページ内検索で、「戊辰戦争」として、記事を探してみてください。河井継之助は国内ではいち早く、最新兵器であるアームストロング砲やガトリック砲などを購入して、官軍と戦いました。しかしながら、多勢に無勢で敗れてしまい、流れ弾を足に受けて、会津藩に敗走している途中で亡くなります。その後、河井継之助の教えは、「米百俵の精神」として長岡では受け継がれているとのことです。米百俵の精神を知りたい人はネットで調べてみてください。
山本五十六は日露戦争にも従軍した海軍の軍人です。その際に重傷を負っていたことをはじめて知りました。武官として長らくアメリカにも駐在しています。したがって、アメリカの実情に最も詳しい一人だったと想像します。それゆえ、アメリカとの戦争には反対していました。そのきっかけにもなる日独伊三国同盟にも猛反対していました。よく聞くのは明治維新後に出来た陸軍は長州(萩藩)出身で占められていたという辺りから、幕府側に立った長岡藩家老を継いだ山本五十六は海軍を選んだのでしょうか。その山本五十六が師を仰いでいたのが、河井継之助でした。やはり故郷である長岡に思い入れがあるのでしょう。
河井継之助と山本五十六のもう一つの共通点は、東映の映画、「峠」と「聯合艦隊司令長官 山本五十六」が製作されて、いずれも役所広司が主役を演じたところです。後者の映画は観た記憶がありました。前者はまだ観ていないと思い、Prime Videoで探してみたところ、実はこちらもすでに観ていたことを思い出しました。そのときはあいにく、河井継之助をほとんど意識していませんでした。「峠」の原作は、司馬遼太郎の歴史小説です。最後に、私が腑に落ちないのは、アメリカとの戦争に反対していた山本五十六が、どうして海軍司令長官として真珠湾攻撃を決断したのかということです。当時の陸軍は、アメリカとの戦争は負けるのがわかっていたので反対していました。残念?当然?ながら、記念館にはそれについての言及はありませんでした。アメリカ滞在が長かった山本五十六は、ルーズベルト大統領の取り巻きに何か懐柔されてしまったのかと、これまで得た拙い知識で想像してしまいます。