処世術について日本人再考石原莞爾がいない

石原莞爾がいない

 以前、「小栗忠順がいない」という記事を書きましたが、今回は第二弾になります。何度も書いているとおり、もともと私は歴史にはまったく興味がなかった人ですが、G○Qの件がきっかけで、その後、歴史関連の書籍を読んできました。最近は特に、いわゆる幕末から大東亜戦争までの書籍を読み漁っています。小栗忠順は幕末の武士・官僚でした。日本の歴史を大きく変えた可能性のある一人です。あいにく、最後は戊辰戦争で薩長軍に処刑されました。いま私が思いを馳せているのは、ご存じでない方もおられるかもしれませんが、石原莞爾(いしはらかんじ)です。2年前までは、お恥ずかしながら、小栗忠順も石原莞爾もまったく知りませんでした。教えられている歴史の中では、二人について教えていないか、もしくは二人とも悪者扱いされているかもしれません。石原莞爾は陸軍師範学校で教官もしていた軍人です。最高位は少将(左遷後に中将)で、陸軍参謀本部長も歴任しています。歯に衣着せぬ発言のため、周りには敵がたくさんいたようです。大日本帝国陸軍軍人の話などけしからんとあちら筋の人は言うでしょう。戦犯は東京裁判で死刑になっているではないか、とも言うでしょう。でも、石原莞爾はA,B,C級戦犯にはなっていません。戦後、庄内の「西山農園」で共同生活をしていました。その後、病気のため入院していた石原に、G○Qは東條英機に左遷された石原莞爾に東京裁判で有利な証言をしてもらおうと依頼しますが、「入院中だ。証言が聞きたければ、おまえらが庄内に来い」と言って、G○Qは酒田に出向いて、出張法廷を開きます。

 法廷では、満州事変は自衛行動であると石原は主張します。さらに、日清・日露戦争まで戦争責任を問うというG○Qの判事に対して、「それなら、ぺりーをあの世から連れてきて、この法廷で裁けばよい。もともと日本は鎖国していて、朝鮮も満州も不要であった。日本に帝国主義を吹き込んだのはアメリカだ」と発言して、判事らを翻弄しました。どうでしょうか?その事実関係は私も知るよしもありませんが、このようなスピリッツを持った軍人が戦前にはいました。いま日本は、シビリアンコントロールされ、軍隊はありません。その代わりに自衛隊があります。自衛隊の幹部で、田母神俊雄さん(当時、航空自衛隊幕僚長)が、以前この時代のことを書籍に書いたら、防衛事務次官にクビにされ、さらには東京知事選に立候補した際の公職選挙法違反で有罪になっています。G○Qではなく、日本の官僚にクビにされました。すなわち、日本の官僚はいま、G○Qが構築した間接統治の中で、いまだG○Qの役目を果たしています。「オレンジ計画」で書いたとおり、日清戦争の後、セオドア・ルーズベルトはオレンジ計画を策定しました。一言で言えば、日本を植民地にする計画です。その後、身内のフランクリン・ルーズベルトが補強して、思惑通り日米は戦争に至り、日本は負けて、いままさにアメリカの植民地になっています。日本が日露戦争に勝利したため、ますます本気になってしまい、1908年には最新鋭の戦艦16隻、巡洋艦2隻、駆逐艦6隻からなるグレート・ホワイト・フリート(白い大艦隊)を横浜港に入港させます。これを見た、海軍大佐で戦略家の水野広徳(ひろのり)は、自著で、日本海軍はいずれアメリカ太平洋艦隊と戦って敗北する、と予言しています。

 真珠湾攻撃に至る過程は、日清戦争後に策定されたオレンジ計画にまで遡ります。石原は自著の「世界最終戦論」の中で、これからの戦争は空軍が主体となり、大量破壊兵器により都市は壊滅され、その最終戦争に勝利したものが、世界を支配すると戦前にすでに核兵器の使用を予言していました。日米戦争は不可避であるが避けねばならず、満州がその戦略上極めて重要であり、支那との全面対決も絶対に避けなければならないと主張していました。当時、陸軍は思想的に4つに分かれていて、それらの駆け引きが結果的にいまの日本の行く末を決してしまったともいえますが、支那との戦争が不可避であると主張していた東條との抗争で、上官だった東條に左遷されます。ここで言っている支那は、蒋介石率いる国民党とソ連が陰で主導していた共産党が抗争していた、いまの中国の南の方を指します。日本は、満州事変、支那事変、さらには南京大虐殺まで起こして、とんでもない悪党の国であると歴史の教科書でもいまだに自虐史観を受け付けられています。ここで、それらの是非を語るほど私自身情報を持っていません。むしろ、もっと大局的にこれらの背景に何があったのかを知るにつれて、蒋介石の背後にはアメリカがおり、満州の背後にはソ連がおり、虎視眈々とアジアを侵略したい西洋諸国の思惑があったことを知りました。そもそも、蒋介石が引き継いだ中華民国を建国した孫文は、アメリカ国籍を有していました。1911年の辛亥革命では、清との戦いで、袁世凱率いる軍には勝てないことを悟り、袁世凱に中華民国の大総統を譲り、事実上、清王朝は消滅しました。そして孫文自身は日本に亡命しています。紹介石軍は日本軍を爆撃機で空爆していますが、当時、爆撃機を造れたのはアメリカだけです。さらに日本本土も爆撃する計画がありましたが、ヨーロッパ戦線に投入するために、結果的にそれは回避されたとあります。まだ真珠湾を攻撃する前の話です。

 満州事変と支那事変はいまの日本人には同じもののようにあいまいに位置づけられていますが、これらはまったく違います。支那事変は紹介石軍との紛争ですが、満州事変は遼東半島や朝鮮半島に侵略を企てているソ連に対する盾となるために、石原らが起こしたものであるとされています。日本が満州を侵略したのではなく、満州を侵略しようとしていたソ連を阻止したというのが真実です。満州は最盛期、4千万人くらい人口があり、そのほとんどは漢人です。それに続いて、満州人、モンゴル人、朝鮮人、そして日本人が共存していました。日本が「侵略」していたとされた満州に3千万人以上の漢人が自ら住み着くでしょうか?石原は、満州で五族協和を実現することで、アジアでの紛争を回避して対米戦を回避することが戦略的に重要であると解いています。日露戦争後、ただでさえも国家予算が尽きていた日本が、南満州鉄道を警護するため作られた関東都督府陸軍部が始まりのわずか1万人程度の警護部隊が、満州事変後に、ソ連から満州を防衛するための関東軍になりました。関東軍とは正規の帝国陸軍ではありません。その後、支那事変が起こりますが、もはや十分な兵力がない日本軍をさらに裂いて、紹介石軍と戦うかどうかの選択で、結果的に紛争が泥沼化していきす。その後、戦力が分散している状況で、真珠湾攻撃に至り、無謀な戦争に突入させられてしまったというのが、真実です。石原が左遷されなければ、いま全く違った世界になっていたかもしれません。それは、さきに書いた小栗忠順と同じで、日本には歴史の分岐点がいくつかありました。後悔先に立たずですが、悲しいかな、そもそもそのような歴史の分岐点に立てそうな日本の政治家や役人は今いますでしょうか?