お散歩コース紹介仙台再発見日記

清水小路と土樋緑地

 前回、「仙台市電と秋保電鉄」の続きになります。前回の地図をもう一度アップします。

 地下鉄南北線の富沢駅先にある富沢車両基地に併設された仙台市電保存館を見学した後、富沢駅から地下鉄に乗って、長町一丁目駅で降りました。地上に上がるとすぐ北側に広瀬川に掛った広瀬橋があります。橋上の道路が「昭和市電通り」とあるように、仙台市電はこの橋の上を通っていました。広瀬橋下の広瀬川が、上流と下流に堰があって流れが淀んでいるせいか、橋の少し上流に白鳥やカモが越冬しています。

 広瀬橋を渡って、昭和市電通りを北の方に歩いて行きました。とにかく車がたくさん通って渋滞がすごくて、看板が示す、昭和市電通りの面影は欠片もありません。と思いながら歩いていたら、ふと、「舟丁」(ふなちょう)というバス停を見つけました。調べてみたところ、仙台開府当初は、この辺で広瀬川を舟で渡っていたようで、水運の仕事をした足軽の舟衆が住んでいたそうです。さらに先まで歩くと、愛宕上杉通りと合流した国道286号線(通称、ニーパーロク)に行き着きます。ここを南(左)に行くと、直ぐのところに愛宕大橋があり、その先の右側にある石段の参道を登っていくと、仙台六芒星の頂点の1つに当たる愛宕神社があります。一方、北(右)に行くと、五橋そして仙台駅になりますが、少し歩いたところに奥州街道との交差地点があります。

 ニーパーロクと現在の田町通りとの交差点角に、辻標二十九番があります。辻標には、清水小路(しずこうじ)と田町の表記があります。清水小路の由来を調べてみたところ、この辺には、上級武士の屋敷があって、奥州街道の中央には大きな堀があり、四ッ谷用水第三支流の清流が流れていたことから、この名前が付けられたそうです。そして、支流はこの地点から南の広瀬川方向と、東へ向かう奥州街道沿いに枝分かれして流れていたようです。そこで、交差点を渡って東側の奥州街道へ行ってみました。すると、少し歩いたところに、辻標六十九番がありました。それには、石垣町と荒町との表記がありました。石垣町には、石垣衆と呼ばれた足軽衆の屋敷がありました。また、荒町は麹の専売特権が与えられた商人が住んでいました。歩いていて気が付いたのですが、お寺がたくさんありました。奥州街道沿いは地図で見るとわかりますが、昔の長屋の土地区分が結構そのまま残っています。道側から奥に長い建物が多く、お寺もみんな奥まったところにあります。防衛上の役目を果たしていたのでしょう。道を戻ってふと見たら、荒町小学校に創立150周年と書いてありました。東北大学よりも長い歴史がある小学校でした。

 来た道を清水小路まで戻って、四ッ谷用水第三支流の広瀬川への排出口が、土樋緑地というところにあるらしいので行ってみました。が、あいにく強風のせいか、たまたまなのかはわかりませんが、ビニール袋に詰めたゴミが捨てられていて、中身が外に散乱していました。ちょっと、写真ではお見せできない、少し悲しい、なんか忘れ去られた場所になっていました。ただ、その緑地からは排出口が直接見えないので、愛宕大橋の途中まで歩いて、そこから、排出口と思われるところを撮った写真に印を付けました。ここからずっと北に向かえば仙台駅なので、ゴミ緑地を見て少しがっかりして、強風と寒さに耐えながら、プラプラ回りを見渡しながら、歩いていたら、五橋まで来たので、東二番丁通りに進み、ウエスティンホテルの横を通過して、気が付いたら青葉通りまで来ていたので、ついでに辻標二十五番の写真を撮って、くたびれ果てて、仙台駅から地下鉄で帰りました。市電保存館を出てから2時間半程度経っていました。実は今日9日は、北仙台周辺の写真を撮っていたのですが、また後日紹介します。