人生について死生観を持つ

死生観を持つ

 なんか重たそうなタイトルになりましたが、年をとると、心臓発作や脳卒中でいつ死んでもおかしくないからだに近づいていきます。でも年をとらなくても、交通事故にあったり、隕石がぶつかったり、人間いつ死ぬかは保証の限りではありません。できれば現役中は死にたくありませんが、覚悟はしておかなければならないといつも思っています。でもいちばんの悲劇は、うつや過労などで発作的に自ら命を絶つことです。20代、30代の死因のトップになっており、毎年それぞれ、三千名以上が亡くなっています。どんな思いで、突然命を絶つのか私には到底理解できませんが、本人もその意味をよく理解できないまま取り返しのつかない行為に至ってしまうのでしょうか。過労の場合は、過度の仕事とストレスから、死んだ方が楽だと発作的に思ってしまうのかもしれません。その環境から逃れたくても逃れられないと、追い詰められてしまいます。うつになる学生も増えています。特にこのコロナ下の環境で増えてくることを当初から危惧していました。このブログを始めたそもそものきっかけは、なんでうつになるのかが知りたくて、いろいろ本を読んだ結果、私なりの答えが得られたからです。そのような人たちに少しでも参考になればと、このブログを書いています。

 先の震災では多くの方が津波でなくなりました。私の両親も、たぶん震災関連死で亡くなりました。でも、家族は無事でしたので、まだ幸いでした。震災では、家族全員を亡くしてひとりだけ残された子供たちもおられます。子供をみんな亡くしてしまった親もおります。何かできるわけではありませんが、その人たちのことを忘れずに、少しでも思いを寄せながら生きていくのは、生き残った者の務めであると思います。命の重さを忘れないようにするため、常に自分自身の死生観を持ち続けることは大切だと私は思います。 「親孝行したいときには親はなし」といいますが、毎日顔を突き合わせていると、ついつい親子喧嘩もしますし、親の言うことに敢えて反抗したりするのは、むしろ普通のことかと思います。それでも心の中では、少し後悔したり、素直になれない自分にもどかしくなったりしませんか? だれでも生きている限り、つらいことは何度も経験します。 でも、家族の間にしこりを残したまま、誰かが死んでしまったら、生きている側にのみ後悔や無念が残ります。

 人はいつか必ず死にます。誰でも、なんで生きているのか、死んだらどうなるのかを考えます。宗教とは、そのような死生観を定義しているものだと私は思います。私自身、特定の宗教は信仰していません。ただ以前も書きましたが、日本人であるがゆえに、生まれながらにして神道なのかもしれません。ただし、死んだらたぶん月並みにお墓に入るのでしょうね。「輪廻転生」という言葉があります。ヒンズー教や本来の仏教などでは、前世と後世があり、死んだら生まれ変わるというものです。でも前世と後世を現世で理解することはできません。自分が前世何だったのか、死んだら何になるのかはわかりません。つまり、現世は前世であり、また後世でもあるわけです。死生観といえるかどうかはわかりせんが、私は最近、「死ぬまで生きるだけ」というような心境に近づいてきました。本当に年をとってきたと実感しています。あとは自分が、「気が付いたら死んでいた」というような最後が理想的ですね。死んだらそもそも死んだことはわかりませんが。