お散歩コース紹介日記日高見国

東北歴史博物館

 年末に髪を切ろうといつもの床屋に行ったら、混んでいたのでやめて、ふと頭になぜか多賀城跡が思い浮かび、そのまま、東北本線に乗って、国府多賀城駅まで行きました。仙台駅から4つ目の駅で20分もせずに到着します。仙台市の隣に多賀城市がありますが、多賀城とは、天智天皇が大化改新で始めた律令制度のもとで、中央集権国家を目指して各地に国府を設けた、東北では最大の国府であるとされています。いわゆる大和朝廷の出先機関です。また、多賀城跡がある国府多賀城駅には、東北歴史博物館があります。気が付いたら、博物館巡りが趣味になっていた私としては、これが3度目になりますが、多賀城跡を見る前に、まずは東北歴史博物館にまた入館しました。入館料は460円です。これまで2回入ったことがありますが、記憶しているのは、貝塚の地層断面だけでした。まずはその断面をまた見ました。地層断面になっていますので、上側が新しい年代になります。興味深いのは、貝殻のある層が、年輪のように隔たっているところです。食べた貝の殻を捨てたのだと思いますから、年単位の地層なのか、その割には幅が結構あることから、気候変動による貝の出来不出来の差なのかはよく調べていません。

 貝塚は、貝を食していた縄文人の生活跡であると思いますが、海岸部分だけではなく、北上川流域にも、いくつかの貝塚があることがわかります。その中でも、震災前には(いまも?)、初夏になると潮干狩りで賑わっていた野蒜海岸が宮城では有名ですが、そこに里浜貝塚があります。そしてその傍に、奥松島縄文村歴史資料館もあります。あいにく、いずれもまだ行ったことはありません。

 以前来た時にはまったく興味外だったので、記憶にもないのですが、東北地方で発掘された縄文遺跡と同じく、土偶やヒスイの飾り、動物の骨から作った道具なども多数見つかっていました。そのうちの一つ(左写真の上段左)、遮光器土偶には、宮城県大崎市恵比須田遺跡と書かれていました。ただし、これはレプリカで、本物は東京国立博物館にあるようです。その右隣の遮光器土偶には、石巻市泉沢貝塚と書かれています。これは本物のようです。さらにその隣には、宮城県ではありませんが、福島市上岡遺跡で出土した腕組みをしている土偶が置かれています。ただし、遮光器土偶ではありません。ちなみに、遮光器土偶の「遮光器」は、日差しを避けるために付けていたメガネのような物?から取った名前のようです。細い横長の溝がある横長楕円形の目を見て、そのように命名されたようです。はたして、縄文時代にもそれがあったかどうかはよく調べていません。遮光器土偶と比較して、上岡遺跡で発掘された土偶はいかにも人らしい姿をしています。

 縄文時代だけでなく、近代までのいろんなものが展示されていましたが、今回の興味は多賀城跡ということもあり、それに関連したものを中心に、実際に見に行く前の事前知識として、見てみました。多賀城が出来た当時は、その北方にはいくつかの城や柵と呼ばれた、いわゆる陣地があったようです。多賀城が大和朝廷の北端に位置する出先機関だとすれば、それらは蝦夷と呼ばれていた人たちの陣地になります。もしくは、これらの場所を総称して、日高見国と呼ばれていたのかもしれません。ちなみに、城と柵の呼び方の違いは、柵が蝦夷、城が大和側だという説もあります。そうすると、この写真の城はすでに、大和朝廷側に支配された場所であるとも言えますが、その節からすれば、少なくとも、もともとは・・柵を呼ばれていた蝦夷側の陣地だったことになります。

 最近、多賀城で発掘された石碑が本物であると認定されて、国宝になりました。本物かと思って撮った写真ですが、本物のレプリカでした。本物は多賀城遺跡の中にあります。

 いま多賀城と呼ばれているところは、国府の政庁があったところで、そこには大和側の人たちがたくさん住んでいたのでしょう。もともと、多賀城はそこから少し離れたところにあったようですが、いまは廃寺になっていたようです。廃仏稀釈で廃寺になったのか、それともその前になったのか、いつ廃寺になったのかはよく調べていません。

 多少、事前の知識を吸収してから、東北歴史博物韓を後にして、多賀城遺跡に向かうことにしました。少し話しが長くなってしまったので、また次回書きます。