お散歩コース紹介仙台再発見日記

本荒町と晩翠草堂

 古地図を見ていると、いろんな発見があり、そこから話がさらに展開します。仙台市の青葉通は戦後できたことはすでに書きました。その青葉通には、辻標が3つあり、四十九番、二十五番、そして十九番です。まずはGoogle Mapから現在の地図をいただきましたので、次に示します。

 辻標の四十九番二十五番についてはすでに写真を撮って紹介しました。もう一つ、辻標十九番があり、そこには、「本荒町」(もとあらいまち)と「良覚院丁」(りょうがくいんちょう)と記されています。あいにく、雨降りが続き、写真を撮れていません。後日撮りに行きたいと思いますが、本荒町の「本」は「ほん」ではなく、「もと」と読みます。したがって、意味としては現在の「元」に当たります。元々ここに荒町があったという意味でしょう。辻標には、元々ここには岩出山から移ってきた「麹屋町」(こうじやまち)があり、藩の医者が多く住む侍丁だったものが、現在の荒町に移されて、その後、本荒町と名前が変わったと記されています。ちなみに、荒町についてはすでに少し触れました。元々、麹屋町ということもあり、移されたところの荒町には麹の専売特権が与えられた商人が住んでいたようです。辻標十九番はよく知られている晩翠草堂の前にあり、その横にある青葉通と交叉している細い通りが、いまでも、「本荒町通り」と呼ばれています。

 その晩翠草堂ですが、仙台人であれば、みなさん名前は聞いたことがありますし、土井晩翠が住んでいたところであることも、たぶん知っています。土井晩翠は、本名が、土井林吉といい、旧制二高の教授をしていました。「荒城の月」を作詞したので有名ですが、たくさんの校歌を作詞したのでも知られています。土井晩翠の生涯をここで説明するほどはよく知りませんので、それはさておき、晩翠草堂は晩翠が住んでいた住居としか知らなかった私ですが、よく調べてみると、もっと深い話がありました。戦時中に晩翠が住んでいた住居は空襲により焼失してしまい、あわせて蔵書約3万冊が焼かれてしまったようです。戦後、それを不憫に思った教え子たちの寄付により、現在の晩翠草堂が建てられて、そこに住み着いたということを知りました。残念ながら、新居に移ってほどなくして、亡くなっています。現在もビル群の中にひっそりと木造家屋が保存されています。興味があったら、覗いてみてください。

 仙台には、昔の名前が今も付いている町がたくさんあります。Google Mapに表示されていた町名に黄色でラインマークしました。「大町」、「立町」、「国分町」は昔の地名がそのまま付けられています。「一番町」は「東一番丁」に後から付けられた名前で、また、「支倉町」は「支倉丁」だったと思います。前にも書いたとおり、「町」と「丁」はそれぞれ、商人、武士が住んでいたところを区分して付けらました。「春日町」と「大手町」は、記載された辻標が見当たらず、調べ切れていません。それから、市内各所にある公園も、それぞれ由来があるのがこれまでの調査で知りました。すでに、「勾当台公園」と「錦町公園」の由来は調査しました。上の地図には、「肴町公園」(さかなまちこうえん)と「良覚院丁公園」という2つの公園に印を付けています。いずれの名前も、これまで聞いたことはありません。名前からして、昔に由来するものと推測します。「辻標四番」、「辻標二十四番」と合わせて、これらについては、古地図を使って次回にまた紹介します。