散る桜にも美学日本人再考

散る桜にも美学

 気温も急に上がって、気がつくと仙台でも桜が満開になっていました。例年であれば、お花見シーズンで、桜の木の下で宴会が始まっているのですが、コロナ禍で、おおっぴらにできないのが残念です。でも、小規模単位でたぶんやっているでしょうね(と思ったら、広瀬川近くにある桜で有名な西公園では、すごい人手で酔っ払いも出現とSNSに流れていました)。だ、だ、大丈夫...? 研究室でも、毎年の恒例行事でしたが、コロナ禍以前、数年ほど開催日が雨降りになってしまい、その後、外ではやらずに研究室内でやるのが恒例になっていました。桜はといえば、大きなディスプレィ上のデジタル桜です。でもこれもあまりおおっぽらにやっている(室内で酒を飲む)と、周りの目が気になるこの頃です。ちなみに、昔は大学内で酒を飲むのは当たり前の時代がありました。研究室での宴会はもちろんのこと、恒例の工明会運動会終了後の祝勝会や、仙台七夕前夜祭の花火大会を見るため建物の屋上で宴会、など楽しい時間の思い出があります。いずれにせよ最近は時世もあり、学内での飲酒はご法度レベルになってしまいました。少し話がずれそうなので、これらは別の機会に書くとして、話をもとに戻しますと、桜の木の下で宴会をする文化は他の国にはないでしょう。桜の木自体がそもそもないかもしれませんが。

 桜の木を切り倒そうとしていた子供(後の大統領)の話は有名ですが、太古の時代から木は燃料であり建物の材料でもあるため、切り倒して土地を切り開くことの方が世界的には常識かもしれません。日本でも当然そのようにしていた時代がありましたが、桜の木は特別だったのではないでしょうか?桜の花は開花してからほんの1週間くらいの命で、その後は散っていきます。菜根譚には「花は半開を看、酒は微酔に飲む」とあります。昔の中国でも花に美しさを感じて酒を飲んでいたのでしょう。でも日本人は、さらに時間軸も含めて4次元的に花を楽しんでいます。桜には、咲き始めたときから散るまでのすべてに、それぞれの時間とともにそれぞれの美的価値を感じます。咲き始めにはその初々しさに合わせてやっと春が来たという思い、そして菜根譚がいう、三分咲き、五分咲きには、まさに移り変わるそれぞれ瞬間での可憐な様、そして満開のときの豪華さ。最後に散り始めたときに感じる、はかなさ。散る桜が、ちょっと幻想的に見えるのは私だけでしょうか?

 一般的に、お花は庭先のプランターや鉢で育てたり、切り花にして花瓶に飾ったり、剣山に刺して生けたりしますが、いずれも静的な花を見ています。でも、花びらが散る桜には、時間軸を含めた動的な花を見ています。軍歌などにも歌われていましたがそれはさておき、昔から、日本では和歌として短歌や俳句にも、桜が詠われてきました。私はあまり興味がなかったので、短歌や俳句はまったく知らないのですが、ネットで調べればたくさん見つかります。そのなかで私が見つけた4次元的な短歌は、「桜花 咲きかも散ると 見るまでに 誰れかもここに 見えて散り行く」と詠った万葉集の柿本人麻呂の有名な一首でした。旅先ですれ違う人と桜の移り変わる姿を重ね合わせて、その一時の出会いにはかなさを感じて詠った内容のようです。他にも、桜の美しさとともに散るときのはかなさを人生と照らし合わせて詠んだ歌が多いようです。恥ずかしながら、この年になってやっと日本の文化を再発見しつつあるなかで、これを機会に万葉集など和歌も少し探索したいと思います。

 時間とともに移り変わる自然の変化を楽しむ文化は、まさに日本に四季があるからだと私は思います。時間スケールに長短はあるかもしれませんが、自然を4次元的に楽しめる(楽しむ)民族はなかなか他にはいません。ごく当たり前の日常ですが、世界と比較して見れば、我々日本人はどれだけ恵まれた自然環境にあるかを、今更ながら再発見することができます。宗教的にも、自然がまったく不変で不動の世界には、唯一神が自然のすべてを支配しているとして一神教が生まれ、一方、移り変わる自然の中で自然の恩恵を受けて生きてきた日本人には、草木国土すべてに神が宿る、八百万の神の信仰が生まれたことも、私は納得できます。散り行く桜にはかなさとともに美しさを感じるのは、また来年になれば花が咲くという安心感があり、散ってしまって残念だが、また来年よろしく、という気持ちが込められているようにも思います。以前、日記にも書きましたが、我が家の庭にも、しだれ桜がありました。でも大きくなりすぎて、電線にひっかかりそうになっていたので、庭園業者の助言にしたがって、柿の木とともに、昨年の10月に思い切って伐採しました。例年でしたらば、まさにいま庭で桜を楽しんでいたのですが、これからはそれができないと、庭を見て在りし日の姿を思い出していますが、そこに美学はありません。