処世術について戦わずして勝つ

戦わずして勝つ

 中国の今はあまり好きになれない人も、三国志が好きな人は多いでしょう。言わずもがな、紀元2世紀終わりから3世紀初めの中国にあった、魏、呉、蜀の国盗り合戦です。私も好きですが、そのきっかけがあまり自慢できるものではなく、シブサワコウの三国志からでした。その後、三国志演義、吉川英治の三国志、横山光輝の三国志などを読んで、結構はまっていました。ただ、三国志の話はまた別の機会にすることにして、ひとつだけ、孔明こと、諸葛亮の最後の逸話に、五丈原の戦いがあります。仲達(司馬懿)との戦いの中、病死してしまったのですが、仲達は孔明が死んだことを知らず、何か奇策が施されていることを恐れて、陣地へ攻め込むことなく撤退した話ですね。「死せる孔明、生ける仲達を走らす」ということわざで有名です。

 兵は詭道。これは孫子(孫武)の兵法ですね。孔明は孫子の兵法にも精通していたことから、いろいろ詭道を使ったことが、三国志演義などにもたくさん書かれています。それらが真実かどうかは別として、五丈原では、「戦わずして勝つ」ための兵法を駆使したのでしょう。戦わずして勝つことは孫子兵法のいちばんの極意です。「百戦百勝は善の善なる者に非ず、戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」という現代語訳の一部をとったものです。国同士の駆け引き(外交)ではたいへん重要なポイントなのですが、今の日本はどうでしょう?もしかすると、やられっぱなしかもしれません。ただし、ここではそんな大げさな話をするつもりはありません。

 皆さんも、あいつはライバルだと思っている「ヤツ」がいるでしょう。ライバルと正面切って正々堂々と戦うのも潔いのですが、その結果がソフトランディングするのは難しそうです。たとえば、成績はあいつの方が圧倒的に上、身長も高い、見た目もイケメン。何から何まで負けていると思ってしまった相手に、正面切って挑んでも、心のなかではすでに負けていますね。そんな時は、同じ土俵で勝とうとするのは得策ではありません。以前、「絶対的価値観を持つ」でも書きましたが、「あいつ」との間にある事象はすべて相対的な価値観に基づくものです。そうではなく、自分の価値観で自分を磨きましょう。たとえば、自分の特技を極める。自分の仕事を極める。自分の研究を極める。自分が好きことを極める。その結果として、あるとき気がついたら、「あいつ」に対する相対的価値観がつまらないものに思えるほど、自分を磨き上げていることに気がつきます。まさにその時、「戦わずして勝つ」ことができます。