後三年の役
源頼義とともに参戦した清原武則は、安倍貞任、宗任らを破り、陸奥国は清原氏が胆沢鎮守将軍として、朝廷の意向の下で統治することになります。でも、源頼義は朝廷の謀略により、負かしたはずの宗任とともに伊予に移されたことは前回書きました。実はこの辺から、その後、勃発する後三年の役までが、あまりにも複雑で、詳細に紹介することはできません。なぜならば、複雑に人間関係が絡み合っているからです。ここでは、あくまで簡単に紹介しますので、興味を持たれた方は自分で探求してみてください。ちなみに、安倍貞任は厨川柵(くりやがわのき)での戦いで負傷して戦死します。そして、貞任側に味方した、藤原清衡の父である藤原経清は、同じく厨川柵で処刑されました。頼義を裏切ったとされる経清は、凄惨な方法で処刑されたとされています。武家がまだ台頭していない時代で、武士道などという言葉のない時代のことです。
清原武則の後を継いだ子である、武貞(たけさだ)は、処刑された藤原経清の妻である結有をなぜか、正室に迎え入れています。安倍頼時の長女であり、母は清原武則の妹とされています。安倍家と清原家は深い姻戚関係にあることを物語っています。そして、経清の子である清衡も養子として迎入れています。父親を処刑した敵である清原家の養子になったわけです。武貞がなぜそのようにしたのかは定かではありません。武貞にはすでに真衡(さねひら)という子がいて、その後、結有との間に家衡が生まれ、そして清衡と、複雑な親子関係を持った3人の子供が同居することになります。この辺が、後に勃発する後三年の役に繋がります。後三年の役のきっかけは、真衡の後継者問題です。真衡は、公家の平氏と源氏からそれぞれ男女の夫婦を養子に迎えます。蝦夷とは繋がりのない後継者を据えることで、陸奥国が安泰になることを目論んだのでしょう。
それに異を唱えなのが、これまた清原家とは姻戚関係のある清原家の長老、吉彦秀武(きみこのひでたけ)です。養子として迎入れた平成衡(たいらのなりひら)の婚礼の席で、吉彦秀武は祝い物として大量の金(きん)を持参しましたが、真衡から完全に無視されました。それに激怒した秀武は、祝い物を投げ捨てて帰りました。今度はこれに激怒した真衡が、秀武の討伐を始めたのが、後三年の役のきっかけです。なんとも、蝸牛角上の争いといったところですが、これに対して、秀武は清衡と家衡を巻き込みました。そのようなときに、源頼義の長男である頼家が陸奥守として赴任してきます。真衡は頼家に協力を依頼します。実は、真衡が養子として迎入れた源氏の娘は頼家の妹でした。結局この争いには、清衡と家衡は加勢しませんでした。そんな中、真衡は秀武征伐に向かう途中で、病気で亡くなります。
人の欲は尽きないもので、今度は家衡が、清原家の家督を継ごうと画策します。家衡は清衡の住居を不意打ちして、清衡の妻子は家衡により殺されました。でも、清衡は辛うじて逃げ切りました。清衡はかって真衡側についていた源義家に協力を願い出ます。最終的には、清衡と義家それに吉彦秀武が加勢して、金沢柵に籠城していた家衡軍を破りました。勝利した義家は、血は争えないのか父親の頼義と同じく、家衡軍で生き残った者を残忍極まりない方法で処刑しました。義家はこの勝利を朝廷に報告しましたが、これまた朝廷からは相手にされず、陸奥守は解任されてしまいます。因果応酬なのか何のか。その結果、良かれ悪しかれ、漁夫の利を得て、清衡が東北の地を統治することになり、清衡は母親の姓である安倍ではなく、父親の姓である藤原を名乗り、藤原清衡として、平泉の地に奥州藤原の黄金時代を築きます。
かなり、大雑把な説明ですが、奥州藤原氏が始まるまでの複雑極まりない、あまり知られていない歴史を紹介しました。これ以降については、以前すでに書きましたので、そちらをご覧ください。