弥勒菩薩と三柱鳥居
今週の初め、京都に出張したついでに、ちょっと気になるところがあったので、2時間ほどいただいて訪れました。太秦(うずまさ)は、名前だけは聞いたことがあるかも知れません。東映太秦映画村がむしろ有名です。その太秦に廣隆寺(こうりゅうじ)があります。一般的には広隆寺と書かれます。太秦という漢字の読みが、どうして、「うずまさ」なのか聞いたことはありますか?これには諸説あります。ヘブライ語であるという都市伝説?もあります。中国では、太秦(だいしん)はローマ帝国を意味します。また、景教(けいきょう)は大秦景教のことで、中国ではキリスト教ネストリウス派を指します。さらにはそのネストリウス派の起源は、前722年にアッシリアにより滅ぼされた北イスラエル王国の十部族の一つであるとする都市伝説?もあります。廣隆寺は渡来人である秦氏の一人、秦河勝が聖徳太子の命により建立した寺であるとされています。秦河勝は聖徳太子の側近であったとされています。その秦氏がネストリウス派の流れを汲んでいるという都市伝説?や、秦が滅んで始皇帝の末裔が、朝鮮半島南端に辰韓(しんかん)という国を造ったが、紀元356年に新羅により滅ぼされ、日本に亡命してきた渡来人の一つが秦氏であるとか、いろんな説があり、想像をかき立てられる時代です。
ただし、私が興味があったのは、聖徳太子から賜って御本尊とした、弥勒菩薩(みろくぼさつ)でした。この名前も聞いたことはあるかもしれません。正式名は弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゅいぞう)です。そこで、その御本尊を拝見しようと、嵐山電鉄、通称、嵐電(らんでん)に四条大宮から乗って、太秦広隆寺駅で降りました。廣隆寺は駅のすぐそばにありました。もう10年以上前に、京都の金閣寺を拝観した際に、京都はすでに日本ではないと思ってしまい、神社・お寺を見る興味も失せていたのですが、廣隆寺は外国人観光客の興味対象外らしく、外国人は一人もおらず、拝観者も疎らでした。拝観料800円を支払って、中に入ったところ、境内にはいくつかの建物があり、苔むした庭園もありました。今年は紅葉が遅れているようで、庭園も綺麗に紅葉していたので写真を1枚撮りました。新霊宝殿という建物の中に、弥勒菩薩は鎮座しておりました。あいにく、写真撮影は不可でしたので、写真はありませんが、ネットで検索すればすぐ見れます。見てみて感じるとは思いますが、知られている一般的な菩薩像とは異質のオーラを漂わせていました。
廣隆寺は、平安京ができる遙か昔である推古天皇11年(603年)の飛鳥時代に建立されたお寺だそうです。渡来人らによって大陸から始めて仏教が伝来されて来たことで、すでにあった神道との摩擦などで、神道派の物部氏と仏教派の蘇我氏が対立していた時代でもありました。そんな中で、聖徳太子は新しい宗教を受け入れて、神仏習合を唱えたのかもしれません。ただし、ここではそれを探求はしませんので、興味のある方は自分で探索してみてください。新霊宝殿には他にも、大きな千手観音や他の菩薩像などがたくさん保管されており、目の前で見ることができました。弥勒菩薩もそうですが、当時、仏像は木造でした。アカマツの木彫像に漆を塗って、その上を金箔で覆っていたようです。
さて、廣隆寺の近くには、秦氏に由来の神社がもう一つあります。その神社の謂れも諸説あるようですが、都市伝説界隈では有名な神社です。木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)という神社で、通称、木嶋神社とか蚕ノ社(かいこのやしろ)と呼ばれているそうです。蚕からは絹が作られますが、養蚕の技術も渡来人が持ち込んだとも謂われています。神社の鳥居といえば、二柱が常識ですが、ここには三柱の珍しい鳥居は保存されています。神社の入口の鳥居は普通の二柱の鳥居です。鳥居をくぐって奥に行くと、本殿があります。その左側に一段下がった池の掘跡のようなところがあり、そこの奥の立ち入りできないところにひっそりを立っていました。三柱の中心にある組石は、本殿ご祭神の神座であることや、こちらもキリスト教ネストリウス派と関係があるという謂れなどが、神社内にある由緒が記された看板にも書かれていました。こちらの神社も観光客はほとんどおらず、ひっそりとしていました。入館料は要りませんでした。
百聞は一見に如かず、ということで、京都ではもう数少なくなってしまった、落ち付いた雰囲気で本来の京都?が感じられる廣隆寺と木嶋坐天照御魂神社でした。俗に言う穴場スポットかと。