島崎藤村と初恋通り
駅裏(東口)にBiviという商業ビルがあり、その1階に仙台人なら言わずと知れた、「半田屋」があります。めし屋です。用事があって、自宅で食事が取れない時によく利用している、いわゆる私御用達のめし屋です。カフェテリア方式になっており、おかずを取ってから、最後にご飯を注文するのですが、私がいつも注文するのは、「めしの小」と「豚汁」です。それから、おかずを1品(だいたいはサラダ類)と生卵1個を取って、だいたい600円くらいです。めしの盛りは中が最大で、その次は小です。ですから、半田屋の「中」は他では「大盛」です。「小」も私には十分大盛ですが、いつも卵ご飯にするので、ベチャベチャにならないように、小にしています。豚汁も丼サイズですので結構な量です。味噌汁椀のハーフサイズもあります。卵ご飯と豚汁、そしておかずを一品食べるのが定番です。これで十分満腹になります。半田屋に張ってあるポスターが欲しい、と思いながら、いつも食べています。どんなポスターかは、実際に行って確かめてみてください。
さて、話は半田屋の話ではないのですが、その半田屋が入っているBiviの横に小道があります。その小道は、「初恋通り」と呼ばれていますが、ご存じでしたか? 私もつい最近知りました。これまでは、何の興味もない、半田屋の横の道で、歩くこともありませんでした。以前、X橋跡の写真を撮りに、「X橋車町通元寺小路公園」に行った際に、小道があるのを見て、その小道を南の方に歩いて行ったら、「名掛丁藤村広場」というのがあり、その手前に石碑とともにパネルを見付けました。パネルには、「島崎藤村と名掛丁」と書かれていました。広場で写真を撮っていたら、さらに先に小道があるので、入っていくと、街灯の柱に「初恋通り」と記されていました、その先に小さな神社らしきものが見えたので、その神社まで歩いて行きました。「三吉神社」という神社で、X橋を取り壊して不用になった石材が参道に使われていると書かれていました。同じく、塩竈神社にも使われていると書かれていました。その神社に沿った小道が、Biviの横にある小道です。
小道の終点は、仙台駅東口で、まさにBiviの横になりますが、そこにも小さな石碑が置いてありました。「三吉神社参道」、「島崎藤村 青春の地・名掛丁」と記されています。藤村が書いた「若菜集」の「初恋」という詩の冒頭の部分も書かれていました。なにぶんにも、文学的素養がほとんどない私は、その時は、ふーーん、そうなんだ、程度で写真だけ撮って家に帰りました。パネルに書かれた説明文も、ほとんど読んでいませんでした。でも、後から気になって、島崎藤村について調べてみたところ、結構、波瀾万丈の人生を送られた方であることを知りました。みなさんの方が詳しいかと思いますので、ここでは触れませんが、仙台には1年だけ、東北学院の教師として滞在して、その際に、若菜集を出版したことを知りました。
文学を文学としか思っていなかったので、理系の私にはこれまでまったく興味が持てなかったのですが、島崎藤村の人生を知って、島崎藤村の作品の背景には、本人の人生が深く関わっていることを知りました。たしかに普通の生活をしている人が小説などを書こうとしても、その題材に苦労してしまうかもしれません。自分の人生が他者にはない独特のものですと、その気になれば、いい題材になりそうですね。
最近、縄文の時代から東北には、「日高見国」(ひたかみのくに)があったという本を読んでいるのですが、その中で、東北では五七調の口語で会話していたという仮説?に触れて、必然的に和歌などが日常的に読まれていたと書かれていました。また、和歌が単なる文学ではなく、その時々の政治や自然、さらには戦いなどの、その時代の時事を簡潔に伝えるのが目的で作られたとすれば、これまで名前だけ知っていた、「万葉集」、「古今和歌集」などの見方も全然違ったものになりそうです。この辺の話はまた改めて書くことにします。
さて、写真で撮った三吉神社の説明文をもう一度よく読んでみたのですが、名掛丁町内会では、X橋の建設に反対していたと書かれています。ありゃりゃ。先には、X橋は名掛丁と元寺小路のどちらに建設するかで揉めたため、折衷案として真ん中に造って、双方から渡れるようにしたからX橋になったと書きました。自分たちの通りに造ってもらいたいのだと思っていたのですが、もしかして、自分たちのところには造るなということだったのでしょうか? はたして真相は如何に。