日本人再考日高見国震災の記憶

富士山噴火と地震

 お盆中に日高見国(蝦夷)の里を取材(暇つぶし旅行?)していました。お盆中にけしからん、とお思いの方もおられるかもしれません。お墓参りなどはすでに済ませていましたので、念のため。まとまった時間がなかなか取れないのと,意外とお盆中は電車が空いているのもその理由です。現地に行かないとわからないこと、気がつかないことが、たくさんありました。この辺の話はまた別に書きたいと思います。

 さて、故きを温ねて新しきを知る、ということで、その気になって調べれば,いくらでも資料は見つかります。日本の歴史と自然災害は切り離すことはできません。特に大地震が起きると政変が起きたり、人々の生活のみならず信仰まで変わったりしました。そこで、宮崎と神奈川で地震もあったことですし、前回の記事で火山についても取り上げたので、富士山噴火と地震の関係について、調べてみました。というよりは詳細な資料が、WEB防災情報新聞にまとめられていますので、そこから一部を拝借してきました。記録のために、資料を長めに貼り付けています、全部読む必要はありません。それぞれの最初をみれば、だいたいわかります。

 西暦になって富士山の大噴火は2回ありました。864年と1707年です。それ以外にも小さな噴火はたくさんありました。まず、富士山噴火について最古の文献として、以下の記載がありました。

・781年8月4日(天応元年7月6日)次の報告が都にもたらされたと「続日本紀・巻第36・天応元年七月癸亥(みずのとい)」にある。「癸亥。駿河国言。富士山下雨灰。灰之所及。木葉彫萎」。

 その後、800年にも噴火が記録されています。

800年4月15日~5月19日(延暦19年3月14日~4月1日):わが国の正史「日本後記・巻9」延暦十九年六月癸酉(六日)の条に“駿河國言。自去三月十四日、迄四月十八日、富士山巓自燒。昼則烟氣暗瞑、夜則火光照天。其聲若雷、灰下如雨。山下川水、皆紅色也”とある。

 この噴火との関連性があるのか否か、

弘仁9年関東地震、818年8月(弘仁9年7月):平安時代の初期、関東地方でマグニチュード7.5クラスと推定される大規模な内陸型地震が起こった。 相模(神奈川県)、武蔵(神奈川県東部、東京都・埼玉県)、下総(千葉県北部)、常陸(茨城県)、下野(栃木県)、上野(群馬県)など、関東一円で山崩れが続発して谷を埋めること数里に及び、そのため洪水も起きたという。農民多数が圧死したと伝えられている。 この大地震について、上野国の国府を初め関係各国府から京の朝廷へ報告が上がり、朝廷では翌9月(新暦・10月)“遣使諸國、巡省地震。其損害甚者、加賑恤”と、被災した各国に使いを遣わし視察させたが、その損害があまりにも大きかったので、租税を免じている。

 そして、864年にいわゆる大噴火の記録があります。

864年7月6日(貞観6年5月25日):864年7月6日(貞観6年5月25日)、駿河国(静岡県)から京の都に富士山大噴火の報告が入った。“富士郡正三位淺間大神大山火(富士山が噴火した)、其勢甚熾(その勢いは甚だ盛んで)、焼山方一二許里(山の650~1300m四方ほどの範囲が焼けている)、光炎高廿許丈(輝く炎を60mも噴出し)、大有声如雷(その響きは雷のようだ)、地震三度、歴十餘日、火猶不滅(みたび地震があり、10余日が経ったが、炎の勢いは衰えていない)、焦岩崩嶺(岩を焦がし峰を崩し)、沙石如雨(噴石は雨のようだ)、煙雲欝蒸(噴煙は大空にわだかまり)、人不得近(人は近づくことができない)、大山西北、有本栖水海(富士山の西北に本栖湖あり)、所焼岩石、流埋海中(焼かれた岩石が流れて湖を埋めた)。遠卅許里(遠さ20kmほど)、廣三四許里(広さ2~2.6kmほど)、高二三許丈(高さ6~9mほどの)、火焔遂属甲斐國堺(火砕流がついに甲斐の国境まで達した)”註:当時の1里は6町=約650m。

 東日本大震災は、貞観三陸地震以来の大地震とされていますが、その貞観三陸地震が、富士山大噴火の5年後に起きました。

貞観三陸地震。M8の巨大地震、869年7月13日(貞観11年5月26日):この日、三陸沿岸部をマグニチュード8.3±1/4という巨大地震が襲った。貞観三陸地震である。2011年(平成23年)3月に発生し東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震は、その規模、震源地、津波など被災状況から、この巨大地震の1100年余の時を経た再来といわれている。わが国の正史「日本三代実録巻十六」に次のような記述がある。“廿六日癸未。陸奥國地大震動。流光如晝隱映。頃之。人民呼。伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顚覆。不知其數。海口哮吼。聲似雷霆。驚濤涌潮。泝徊漲長。忽至城下。去海數十百里。浩々不弁其涯涘。原野道路。惣爲滄溟。乘船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉”。
 26日、陸奥国に大地震があった。夜であるにもかかわらず、空中を閃光が流れ、暗闇はまるで昼のように明るくなったりした。しばらくの間、人々は恐怖のあまり叫び声を発し、地面に伏したまま起き上がることもできなかった。ある者は、家屋が倒壊して圧死し、ある者は、大地が裂けて生き埋めになった。馬や牛は驚いて走り回り、互いを踏みつけあったりした。
 多賀城の城郭、倉庫、門、櫓、垣や壁などは崩れ落ちたり覆ったりしたが、その数は数え切れないほどであった。河口の海は、雷のような音を立てて吠え狂った。荒れ狂い湧き返る大波は、河を遡り膨張して、忽ち城下に達した。海は、数十里乃至百里にわたって広々と広がり、どこが地面と海との境だったのか分からない有様であった。原や野や道路は、すべて蒼々とした海に覆われてしまった。船に乗って逃げる暇もなく、山に登って避難することもできなかった。溺死する者も1000人ほどいた。人々は資産も稲の苗も失い、ほとんど何一つ残るものがなかった。このなかの“流光如晝隱映(空中を閃光が流れ、暗闇はまるで昼のように明るくなったりした)”は、わが国で最古の発光現象の記録である。被災当時の多賀城(宮城県多賀城市)は、陸奥国国府として政治・軍事中心都市であったが、郊外には多くの商店が軒を並べ東北地方随一の商都としても栄えていたとの伝承がある。

 そして、さらに富士山噴火から23年後、貞観三陸地震から18年後に、南海トラフ地震の記録があります。

887年8月26日(仁和3年7月30日):清和、陽成、光孝3天皇の事蹟を記録した「日本三代実録」光孝天皇記仁和3年7月30日の項に“申時、地大震動、經歴數剋震猶不止。(中略)諸司倉屋及東西京廬舎、往往顛覆、圧殺者衆。有失神頓死者。亥時又震三度。五畿内七道諸國、同日大震。官舎多損、海潮漲陸、溺死者不可勝計。其中攝津國尤甚”とある。南海トラフ沿いに起きた東海、南海地震が連動して同時に発生した超巨大地震とする説が近年有力になっている。

 関東地震、富士山大噴火、貞観三陸地震、南海トラフ地震が発生して、これらの関連性が疑われるところですが、これだけですと、たまたま偶然かと確信があまり持てません。しかしながら、同じようなことが約900年後に起きています。この時は、三陸沖の地震は記録されていませんが、一方で、関東で起きた元禄地震が記録されています。

元禄地震(310年前) 1703年12月31日(元禄16年11月27日):丑の刻(午前2時ごろ)、相模灘の東方、房総半島野島崎沖を震源地とするマグニチュード7.9~8.2の大地震が発生した。1923年(大正12年)9月の関東地震と同じ相模トラフ沿いで起きた地震で、関東地方南部の相模(神奈川県)、武蔵(東京都ほか)、上総(千葉県)、安房(千葉県)および甲斐(山梨県)の震度は7~5と推定され、被害も集中した。特に小田原は壊滅的な被害を受け、2327人が死亡、家屋倒壊7700軒以上、寺社の倒壊307か所となった。また箱根山中に山崩れが起こり、厚木では家の大半が崩れ59人死亡。大山では山崩れで100人が死亡した。東海道の宿場は小田原から川崎まで数軒を残しほとんど全滅した。江戸では江戸城の櫓の石垣や塀、大名屋敷の長屋などが多数、倒壊、破損し、本所あたりでは火災も起き被害が大きかった。甲府領内にも被害が及び83人死亡、家屋全壊211軒などで多くの山が崩れた。地震後、津波が下田から犬吠埼に至る沿岸を襲った。特に伊豆の東岸では、下田で27人死亡、家屋倒壊・流失492軒、船舶の損壊81隻。宇佐見で380人死亡、伊東の玖須美で163人死亡。鎌倉では鶴岡八幡宮の二之鳥居まで津波が押し寄せた。中でも房総半島の被害は大きく、安房小湊周辺で100人死亡、家屋流失570軒。御宿で20余人死亡、家屋倒壊440軒、京極氏領内の長狭及び朝夷郡(現・南房総市ほか)で42人死亡、家屋倒壊687軒。伊豆大島では波浮池が決潰し海とつながり、岡田では56人死亡、家屋倒壊58軒、船舶流失18隻。被災地全体の被害は1万367人死亡、家屋全壊2万2424軒、同半壊991軒、同流失約6000軒、寺の全壊326か所、同半壊6か所、船舶流失1439隻など。

 元禄地震の4年後に宝永地震が起きています。いわゆる、南海トラフ地震だと思われます。

宝永地震、最大級の東海~南海連動超巨大地震 1707年10月28日(宝永4年10月4日):わが国で起きたマグニチュード8.6という最大級の超巨大地震の一つである。未の刻(午後2時ごろ)地震発生。被害はほぼ全国にわたるが、家屋が倒潰した震度6以上と推定される地域は、駿河国(静岡県中部)、甲信(山梨、長野県)より西で、駿河中央部、甲斐西部、信濃、東海道(愛知、三重県)、美濃(岐阜県南部)、富山、大聖寺(石川県加賀市)、紀伊(和歌山県)、近江(滋賀県)、畿内(京都、大阪、奈良各県)、播磨(兵庫県南部)及び中国、四国、九州各地に及んでいる。海岸では地割れから泥を噴出するという液状化現象が起きたほか、四国室戸岬から紀伊串本、駿河御前崎付近と太平洋沿岸部で1m~2mの土地が隆起し、室戸岬から西の土佐湾沿岸では20平方kmにわたって最大2m沈下したという。地震災害の特に大きかった地域は、東海道から伊勢湾沿岸にかけてと紀伊半島一帯で、袋井は全町全滅、見付(現・磐田市)、浜松(以上静岡県)、鳴海、宮(以上名古屋市)、四日市(三重県)は町の半ばが倒潰し、名古屋では名古屋城内の所々が破損し地割れがあった。紀伊田辺では20人死亡、411戸が被災し内138戸が全潰、119戸が大破、154戸が津波で流失。四国徳島では630戸が倒潰している。また各地で名古屋城以外にも城郭特に石垣の破損が多く、備後(広島県東部)三原城は石垣が損傷、広島城では濠の水が溢れ石垣が崩潰、伊予(愛媛県)大洲城は石垣が崩れ、讃岐(高知県)丸亀城と美濃大垣城は城内の建物が破損しており、それぞれ城下町で家屋が損潰した。この地震では特に津波による被害が大きく、伊豆半島から九州にいたる太平洋沿岸及び瀬戸内海にも大波が達し、大阪湾、播磨、伊予、周防、長門(山口県)などに大きな被害が出ている。太平洋の八丈島も津波の被害に遭った。なかでも地震による揺れと津波によって、大坂の街は最近発見された資料によると家屋倒潰3537戸、地震により5351人死亡、津波により1万6371人死亡という(日経新聞2013年7月9日)。土佐(高知県)では地震から1時間後に波高5~15mの津波が襲い、1844人死亡、926人行方不明。家屋全潰5608戸、同流失1万1167戸、同破損1000余戸、船舶の流失・破損768隻の被害となった。なかでも浦戸湾口の種崎(現・高知市)には15mの津波が襲い、一木一草も残らず700人が死亡、宇佐で400人、福島で100人が死亡(以上現・土佐市)、須崎で300人、久礼(現・中土佐町)で200人が犠牲となっている。
 また紀伊の広村(現・広川町)では1000戸の集落の内、700戸が流失、150戸破損、292人が死亡。同国の湯浅では1000戸の集落の内、292戸流失、275戸破損、53人死亡。尾鷲では641戸流失、530人余死亡。遠江(静岡県西部)浜名湖畔の東海道新居宿(現・湖西市)は、推定波高3mの津波で家屋流失287戸。伊豆の下田では波高5~6mの津波が押し寄せ、家屋全潰・流失857戸、同半壊55戸、11人死亡、船舶の流失・破損215隻の被害となった。
 この地震の震度7以上相当地域と津波襲来区域が、1854年12月23日(嘉永7年11月4日)に起きた安政東海地震とその32時間後の翌12月24日(旧・11月5日)に起きた安政南海地震を併せたものに似ているので、南海トラフ沿いの遠州灘沖と紀伊・四国沖を震源地とする二つの地震がほぼ同時に起こったものと考えることができるという。またこの地震の約1か月後の12月16日(旧・11月23日)に富士山が例の宝永大噴火を起こしているが、この巨大地震によって大噴火が誘発されたのではないかと考えることも可能だという。
 被災地全体の被害は明確に分からないが、各藩と幕府直轄地の被災報告をまとめ、それに最近発見資料の大坂を加えると、死亡者2万6000人余り、家屋全潰6万1000戸余り、同流失1万8000戸余り、同半潰・破損4万3000戸弱、蔵の被害2000棟、船舶流失・破損3900余隻、田畑の流失・荒廃は14万石相当にあたる159平方kmであった。

 そして、宝永地震が起きた2ヶ月後に富士山大噴火が記録されています。

1707富士山宝永噴火 1707年12月16日~08年1月1日(宝永4年11月23日~12月9日):1707年10月28日(宝永4年10月4日)マグニチュード8.6という超巨大地震、それも東海~南海連動地震と言われる宝永大地震が起きた35日後の12月3日(旧暦・11月10日)ごろから、富士山麓の村むらでは、1日に3~4回地響きの様な音が聞こえるようになり、その10日後ごろから火山性地震が頻発し始め、噴火前日の午後からその回数が急増したという。100kmほど離れた江戸に火山灰が12日間も降り、人々は昼間でも明かりを点けたり、目を傷めるなど難儀をしたという。旗本・伊東祐賢は記す“十一月廿三日巳刻時分(午前11時前後)より南西の方に青黒き山のごとくの雲多く出申し候はば、地は震へ申さず候へて震動間もなくいたし、家震へ、戸・障子強く鳴り申し候”“午の中刻(午後1時ごろ)より、ねずみ色の灰のごとくの砂多く降り申し候”“夜に入り候へて降り候砂の色黒く、常の川砂なり、昼夜降り候砂、およそ二、三分(6~9mm)ほど積もり申し候”。

 これらから、少なくとも三陸トラフ大地震、そして関東大地震は、富士山大噴火と連動していることは間違いないでしょう。したがって、仮に三陸トラフ大地震もしくは富士山大噴火が起きれば、次に富士山大噴火もしくは三陸トラフ大地震が起きるのは必然かと思います。ただ、1707年から、まだ300年くらいしか経っていないから、あと600年は起きないとみることもできないことはないですが、最近の宮崎や神奈川、さらにはその周辺で頻発する地震を考えれば、三陸トラフ大地震の前兆であると考えた方が自然です。いずれにせよ、備えあれば何とやらで、可能な限り備えておいた方が無難かと思います。故きを温ねて新しきを知る、には深い意味があります。歴史上、繰返し起きていることは、過去に学ぶのが一番です。

 ちなみに、自然災害が物理的のみならず、精神的に大きな影響を与え、その後の日本の歴史を変えるくらいの出来事の典型例を一つだけ取り上げまず。奈良の大仏がある東大寺の建立は、聖武天皇の勅令で始められた一大事業でしたが、734年に起きた畿内七道地震をきっかけにして、聖武天皇が仏教に帰依していった結果として建立されたようです。民の?それとも自分の?極楽浄土を願って、約10年の歳月を掛けて造られました。その最後の行程に、金の鍍金があり、金不足に悩んでいたところ、今の宮城県涌谷で金が発掘されたお陰で、その金を使って鍍金されたと記録があります。前回書いた記事では、金鉱山は東北地方に多く分布していることを紹介しました。金に目を付けた大和朝廷により、日高見国(蝦夷)の運命が大きく変わったとすれば、蝦夷の滅亡は、畿内七道地震がきっかけの一つであった、ということもできます。以下が畿内七道地震の記録です。

天平6年畿内七道地震 734年5月18日(天平6年4月7日):わが国古代の正史(公式の歴史書)「続日本記(しょくにほんぎ)」の天平六年四月戊戌(七日)の項に“地大震。壊天下百姓廬舍。圧死者多。山崩川壅。地往往折裂、不可勝数(大地が大きく震え、天下の百姓(ひゃくせい:万民、民衆)の家が倒壊し、圧死者が多く出た。山が崩れ川を埋めた。大地が往往(あちらこちら)で裂けたが、数え切れない)”と記す大地震が起きた。 朝廷(政府)では、5日後の4月12日(新暦・5月23日)、畿内(平城京周辺の国々:大和、山城、河内、和泉、摂津:現・奈良、京都、大阪、兵庫県東部)と七道(本州、四国、九州)諸国に使いを出して、各地の神社の被災状況を調査させているので、震域が広く被害が広範囲に及んだと推定されているが、震央や規模(マグニチュード)は不明のようだ。 時の聖武天皇は、4月21日付けの詔(みことのり:天皇のお言葉)で“比日、天地之災、有異於常。思、朕撫育之化。於汝百姓有所闕失歟(近ごろ、天地が引き起こす災害に、いつもと異なるところがあるのは、思うに、朕(私:天皇ご自身)の民衆に対する撫育之化(愛しく育てる:君主の徳や政治方向)に、民衆にとって欠けているところが有るのではないか)”と反省している。 ところがその翌年の735年6月(天平7年5月)、太宰府を中心とした北九州に、初めて天然痘(ほうそう)が侵入し猛威を振るった。この時も天皇は、同月23日付けの詔で“廼者災異頻興。咎徴仍見。戰戰兢兢。責在予矣(災異がひんぴんと興っているが、これは天地からの咎徴(とがめの兆し)で、戦々兢々(おそれつつしんで)施政者としての責めは予(聖武天皇)に在る)”と、この時も、自省しておられる。 しかし、これら地震や感染症の流行は、災害というべきで、当時の防災体制では防ぎようがなかったが、天皇(施政者)の最大のつとめは、災害を防ぎ国家を安泰に置くことにあるので、これを行い得ないのは、天皇の“罪”とされた。この罪をつぐなうための救済者として、仏(ほとけ)を選び、国土の静謐(穏やかに治まる)と人民の安穏を祈願したという。聖武天皇が仏教に深く帰依(精神の寄りどころとする)し、諸国に国分寺と国分尼寺を創建する詔を出したのは、大地震の7年後の741年3月(同12年2月)、東大寺の開眼供養はその11年後の752年5月(天平勝宝4年4月)のことである。