お散歩コース紹介仙台再発見日記

定禅寺と勾当台公園

 前回の「元寺小路の不思議」の続きになります。もう一度マップを示します。愛宕上杉通を渡って元寺小路に入り、歩いて勾当台公園の方に向かいました。ずいぶん前にここを歩いたことがありますが、その時は家具屋が多いという印象でした。いまも、数件あるようです。一方、お寺はやはり見つけられませんでした。元寺小路は四ツ谷用水に沿って続き、途中で四ツ谷用水から離れて、少し湾曲した道になり東二番丁通の方に突き当たります。この周辺に辻標七番と四十五番がありましたので、写真を撮りました。

 まず、元寺小路が突き当たった東二番町通の向かい側に辻標四十五番があります。それには、「森徳横丁」と「百騎丁」と記されていました。いずれも始めての名前なので調べてみました。東二番丁は昔、百騎丁とも呼ばれていたようで、数百石の中堅武士が住んでいて、騎馬侍の出陣場所だったようです。一方、森徳横丁は辻標のある細道のことで、明治の中頃に東一番丁と東二番丁の間にできたようです。明治の初期には荒れ果てた通りだったため、化物横丁と呼ばれていましたが、芝居小屋ができて、それが森徳座だったことから、この名前が付けられたようです。

 次に、元寺小路の途中から北の方に坂を登ると錦町公園がありますが、その南角に辻標七番があります。それには、「同心町中丁」と「大仏前」と記されていました。こちらも始めて聞く名前です。いずれも謂れがそれなりに複雑で簡単には書けないのですが、もともと錦町公園には梁川八幡宮があったのですが、川内に移されたようで、いまの亀岡八幡宮に当たります。その後に天台宗の等覚院ができて、そこに丈六の木造の釈迦座像が置かれていたそうです。丈六は十六尺のことで、一尺は約30cmですから4.8mになりますが、座像なのでその半分くらいの大仏になります。錦町公園北側の定禅寺通りから分岐して東方向に斜めになって花京院を通る道が昔は大仏前と呼ばれていたようです。現在、国道45号線になっています。明治維新の廃仏毀釈により等覚院は廃寺になり、大仏だけが残されていましたが、あいにく、大仏も空襲で焼失してしまったようです。戦後、跡地が錦町公園として整備されました。

 一方、同心町中丁ですが、錦町公園のすぐ東側に定禅寺通りを跨いで北側に愛宕上杉通とほぼ平行に同心町通があります。この周辺に同心衆と呼ばれる町民?が住んでいたようですが、どうも錦町公園周りの道路は戦後に再整備されたせいもあり、どうしてその町名が付いた辻標が錦町公園南側にあるのかは、現時点では未調査です。この辺はまた調べることにします。

 辻標七番の写真を撮ってから、錦町公園を抜けて、定禅寺通りに出てきて、それから、勾当台公園の方に向かいました。勾当台公園は仙台市民ならば、みんな名前は知っているところで、地下鉄の駅もあります。ただ、その謂れは意外と知らないかもしれません。私も今回初めて知りました。勾当台公園ならびに宮城県庁の辺りにはもともと定禅寺がありました。以前から定禅寺通りの名前が通りに付いているのに、肝心の定禅寺が何処にもないのを不思議に思っていました。勾当台公園を西側から東に向かって見ると、少し高台になっているのがわかります。これは、上町段丘の縁にあることを示しています。階段を上って高台を東側に行くと、勾当台公園の東端に至りますが、そこに土台の一部と思われる定禅寺跡がありました。定禅寺も廃仏毀釈により明治になって廃寺になりました。もともと定禅寺通りと呼ばれていた通りは大町西公園から定禅寺があるところまでの通りでしたが、仙台市電の開通に合わせて、現在の駅前通まで延長されました。勾当台公園も戦後に整備された公園で、そこに至るまでにはもっと深い歴史があるようですが、また次の機会に調べて書きます。

 錦町公園にあった等覚院も、勾当台公園にあった定禅寺も、青葉城本丸から北東方向の鬼門封じのために、伊達政宗が建立しました。仙台城下の設計ならびに仙台市の整備に、神社やお寺が深く関わっていたことがわかります。

 さて、勾当台公園の少し北側に、「勾当台公園古図広場」があるのをご存じですか?興味がなければ、素通りする場所です。そこには、四ツ谷用水支流跡に造られたと思われる5m四方程度の立体地図とその横に説明を記した大きな地面パネルがありました。水が流れるようですが、いまは流れていません。以前流れていたかどうかすら知らないくらい、まったく関心がありませんでした。横を通ることがあったら、ちょっと覗いてみてください。

 さて、最後に辻標一番が近くにあるので、行ってみました。すると、仙台市役所が現在工事中で、工事壁の内側にあるため、代わりに写真パネルが置かれていました。これもある意味、貴重な写真かと思います。歴史マニアに気を使ってくれたのかどうかはわかりません。現在の市役所横の通りが表小路で、現在の東二番丁通になっている大通りの北四番丁から勾当台公園までの部分が勾当台通と呼ばれていたようです。ここから、戦後に勾当台公園という名前が付けられたのでしょう。