国見山廃寺・北上
日高見国の探索で、お盆に北上に2泊していました。なんで北上?と思われるかもしれません。蝦夷の英雄とされる阿弖流為(アテルイ)が拠点としていたところが胆沢(いざわ)だったという話から、何となくというところですが、周辺への移動も便利かと思い、北上にしました。その間、平泉、一関、遠野に行っていた話はこれまで書きました。北上の人には申しわけないのですが、北上って何処?という方がほとんどかもしれません。北上川の名前だけは聞いたことがあるでしょう。東北新幹線で一関より北に向かうと、水沢江刺、北上、新花巻、そして盛岡に各駅停車は止まります。その北上です。したがって、新幹線が止まります。北上川と和賀川が合流するすぐ北側に位置します。北上自体の歴史や阿弖流為については、まだあまり知りませんので、さらに調べてまた別の機会に書くことにします。ちなみに北上の語源は日高見であるとされています。
北上に宿泊したこともあり、何か見なければならないと思い、阿弖流為について常設している奥州市埋蔵文化財調査センターに行ってみようと思ったのですが、それなりに距離があります。重ねて、お盆中でバスが運休しているらしく、さらには先に日記でも書いたように、旅程初日にスマホが壊れてしまい、タクシーに乗るにも不便なので、結局行くのは断念しました。代わりにどこかと探したところ、北上市立博物館がありました。旅程3日目の遠野へ行った帰りに、新幹線の時間までまだ間があったので、その間に行くことにしました。とはいえ、バスはありません。北上駅前からタクシーに乗り、運転手のおじさんに北上市立博物館までと言ったところ、それ何処?というような返事が返ってきました。地元でもあまり知られていないようです。近くにみちのく民族村というのがあるようなので、その近くですと言ったところ、あぁあそこね、と言った感じでした。
地図では近くにあるように見えたのですが、結構距離がありました。帰りは歩いて帰ろうと思い運転手に言ったところ、無理だとすかさず言われて、降りる時に名刺を渡されました。でもスマホが使えません。とりあえず、タクシーを降りて、北上市立博物館に向かって中に入りました。観覧料は500円です。やはり、縄文遺跡がたくさん見つかっているようです。先にも書いた通り、武内宿禰(たけしうちのすくね)が、日高見国が東にあるので占領すべしと景行天皇に進言したとされる話が日本書紀に書かれており、それ以来、日高見国は蝦夷と蔑まれて大和朝廷から侵略され続けました。
展示資料によれば、坂上田村麻呂が胆沢に城を築き、それをきっかけに阿弖流為は降伏したとされ蝦夷は滅びます。その後、胆沢を統治していた安倍頼時を始めとする安倍氏の時代に国見山に大規模な寺院が造られたようです。その後、前九年合戦と呼ばれる朝廷側の源頼義に敗れて安倍氏は滅びました。その後、清原武則を始めとする清原氏が北上を統治して、国見山の寺院はさらに発展したようです。そして、後三年合戦で今度は源義家に清原氏は敗れました。その後に藤原清衡により北上が統治されるようになりますが、その時に清衡は国見山の寺院を平泉に移したようです。したがって、平泉の中尊寺を初めとする寺院はもともと国見山にあった寺院が移されたと思われる、という説明でした。そのため、国見山廃寺と呼ばれているようです。
北上地方は、江戸時代、伊達藩と南部藩の境界付近に位置していたことから、良かれ悪しかれ両者の影響を強く受けていたようです。ただ、あまり詳しいことはまだ調べていません。北上には鬼舞などの伝統文化が根ざしています。北上に宿泊して、夜夕食を食べるために2件のお店に入り店員のおばさんやおじさんに接して、またホテルのフロントのお姉さんやタクシーの運転手などと接して感じたのは、人々の物腰の柔らかさでした。気のせいだろうと言われるかもしれませんが、それは実際に触れてみないとわからないかもしれません。トゲトゲした人に会うことはありませんでした。、博物館を見終わっから、受付のおばさんにタクシーを呼んでもらい、北上駅に戻って、ホテルに預けていたスーツケースを取って、やまびこで仙台まで帰りました。収穫の多い3日間の探索でした。実は、初日に遠野に行けなかった代わりに、宮沢賢治記念館に行っていました。そこで、スマホが壊れました。その話は次回にまた。