仙台再発見日記

北仙台の変遷その1

 古地図を使って、今度は北仙台周辺の変遷を見てみました。北仙台については、先に結構詳細に調べていますが、古地図を使って、改めて確認してみます。

 まず、天和3年の地図を見ますと、奥州街道の北端に、東昌寺があるのがわかります。奥州街道は東昌寺のところで、東側に90度向きを変え、北方向に向かっています。東昌寺は、仙台六芒星の北の頂点として建立されたことが、先の調査でわかりました。東昌寺の横隣には寺院がいくつか並んでいます。その中には、いまもある、アジサイで有名な資福寺や、伊達家の菩提寺である輪王寺などもあります。この辺りは、元寺小路と同じく、北の守りを固めるために、伊達家が多くの寺院を配置したことがうかがわれます。

 目を少し南に向けると、通り沿いに細い線が書かれているのがわかります。そして、通りの交叉地点で、小さな黒塗りの点のようなものを記されています。何なのかが確認できるのは、現在の北六番丁に相当する通り沿いに線が書かれていることから、これは四ツ谷用水であることが推測されます。そして、通りの交叉する部分の黒い点は、ちょうど、上杉山橋があったとされるところにも記されていますので、四ツ谷用水に架かる橋であることが推測されます。多くの通りにこの線と黒い点があることから、四ツ谷用水の支流は町中に巡らされていたことが想像できます。

 次に明治13年の地図を見ますと、元寺小路周辺と同じく、ずいぶんあっさりとした地図ですが、奥州街道の北端に青葉神社があるのがわかります。仙台六芒星の北の頂点が、東昌寺から青葉神社に変わったことがわかります。東昌寺はいまでも青葉神社の隣にありますが、なぜか、奥州街道からは直接行くことができません。地図の赤○を付けた部分には名前は記されていませんが、たぶん寺院と思われる記号がたくさん記されています。実は、天和3年の地図にも、輪王寺の西側にある、現在の北山地区の辺りにたくさんの寺院の名前が記されていました。あいにく、今回の比較の範囲外になっています。これから推測されるのは、明治になって廃寺稀釈により、多くの寺院が廃寺になり、たとえば元寺小路では実際にそうなっていますが、一方、北仙台辺りの寺院の多くは廃寺にならず、存続していたことがうかがわれます。ただし、象徴的な東昌寺は一旦、廃寺になったのか、それとも隅に追いやられたのでしょう。

 昭和3年以降は、次にまた書きます。