日本人再考日高見国

前九年の役

 日高見国の続きです。1051年に始まった前九年の役で、安倍頼良、その子である貞任(さだとう)が源頼義に破れて、安部一族は離散したと前回書きました。ちなみに、頼良は頼時と改名しています。これは、源頼義と同じ読みであることから、服従の意を示すため改名したとされています。その頼義に破れました。安倍頼良は、陸奥国の奥六郡を治めた俘囚長(ふしゅうちょう)だったとされています。奥六郡とは、律令制のもとで造られた胆沢郡(いざわぐん)、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡(ひえぬきぐん)、岩手郡を指します。俘囚とは、蝦夷滅亡後に、朝廷に帰属した蝦夷を指します。したがって、安倍頼良は阿弖流為と同じく、蝦夷を統治していた族長の一人であったと思われます。阿弖流為が処刑された後も、朝廷に属する形で、蝦夷(日高見国)を統治していたとされています。

 すでに朝廷側に帰属しているわけですから、改めて争うのも変に思うのですが、一説では朝廷側の徴税に従っていなかったと謂われています。そこで、朝廷が陸奥守だった藤原登任(ふじわらのなりとう)に、安倍氏の懲罰を命じたのが、前九年の役の始まりです。登任は安倍氏側に攻め入りましたが、衣川(ころもがわ)での鬼切部の戦いで大敗を期しました。朝廷は次に、源頼義を陸奥守として新たに安倍氏征伐に向かわせます。ところが、藤原道長の長女で、後に第66代天皇である、一条天皇の后になった、藤原彰子が病気になり、その回復を祈願するため、鬼切部の戦いでの安倍頼良の罪は赦免されました。この後、頼良は源頼義に服従する意を示すため、頼時と改名します。天変地異が現人神である天皇の罪であるとされていた時代を物語っています。

 陸奥守としての源頼義の任期が残りわずかとなったころ、頼義は安倍頼時の子、貞任(さだとう)が謀反を起こしたと、あらぬ?嫌疑を掛けて、出頭を命じました。どうも、貞任が藤原一族の娘と結婚したいという申し出に対して、身分の低い安倍氏とは無理だ、と言われたことに腹を立てて起こした謀反だと話が伝わりました。それには安倍頼時も激怒して、貞任の出頭を拒否します。そこで、源頼義は安倍氏討伐を開始します。このとき、頼時の娘と結婚していた藤原経清(ふじわらつねきよ)は、安倍氏側に付いて戦います。経清は後に奥州藤原を統治する藤原清衡の父親に当たります。経清はもともと朝廷側から多賀城に向していた官人の一人で、亘理(現在の宮城県)付近で荘園を経営していた豪族でした。結果的に、源頼義は敗北しました。ただ、安倍頼時はこの戦いで戦死しました。後を貞任が継ぎました。

 源頼義は、どうにかして安倍氏を倒すため、再度、黄海の戦い(きみのたたかい)で大軍を率いて頼時成敗を試みますが、また大敗を期してしまいました。なんとかしたい頼義は、蝦夷で同じく昔からの豪族であった、清原武則(きよはらたけのり)に安倍氏討伐への参戦を何度も説得します。武則自身、安倍一族の娘を妻にしている、安倍氏とは親戚関係に当たります。最初は消極的だった清原武則でしたが、頼義の再三の説得に折れて、参戦を決意しました。最終的に、清原氏の援軍により、源頼義は安倍貞任を倒して、安部氏の支配を終わらせました。この後、頼時の三男、宗任は伊予に流され、宗任の子は十三湊に逃れて、それぞれ、宗像水軍、安東水軍の祖になった話は前回書きました。

 安倍氏に勝利した源頼義は官位が上がったものの、朝廷側から高く評価されたわけでもなく、宗任を監視するためという理由で、同じ伊予に赴任を命じられました。ここには、武家支配を目論む源氏への、平氏に支配されている朝廷側の牽制があったとされています。前九年の役の後、陸奥国は清原氏が統治することになります。これについてはまた後で書きます。