会津若松
喜多方駅から会津若松駅は、磐越西線で15分程度のすぐの距離で13時過ぎに到着しました。ここでの一番の目的は、今回のテーマである戊辰戦争の記憶を辿ることです。ただ、喜多方で1時間ほどロスしたため、帰りの電車までの3時間程度で回ることにしました。事前のサーチで、周遊バスがあることを知りましたので、それを利用することにして、バスターミナルで1日券を700円で購入しました。「あめべぇ」と「ハイカラさん」と名前の付けられた周遊バスがそれぞれ逆方向に周遊しています。それぞれ1時間ごとの運行で、駅に着いた時に直近のバスはあかべぇでしたので、それでまずは鶴ヶ城に行くことにしました。13時30分のあかべぇ号に乗りましたが、乗客の数が半端ないくらいいて、私は座れましたが、立った乗客で満員状態になりました。この時期にこの状態ということは、観光シーズンはどうしているかが気になりましたが、この時期も実は観光シーズンだったのかもしれません。それはともかく、鶴ヶ城までは約20分程度で到着して、降りました。


鶴ヶ城は以前も1度見に来たことがありますが、また来てみました。いつ見ても、白塗りで凜々しいお姿をしています。以前来た時に中に入ったかどうか、もう記憶がないのですが、今回はバス時間の都合上、外から眺めただけで、失礼することにしました。鶴ヶ城を周りから拝んだ後、また周遊バス乗り場に戻りました。


今度はハイカラさんに乗り、飯盛山に向かいました。ここに来るのは初めてです。戊辰戦争の戦いで、敗走してきた白虎隊が自刀したところです。そして、その十九士のお墓があります。飯盛山の入口は急な斜面の階段になっていて、降った雪が凍結していたので、念のため別にある迂回路を通って、上まで登りました。そして辿り着いた広場には、白虎隊十九士のお墓がありました。説明が書かれた看板には、議論の末、「誤って敵に捕らえられ屈辱を受けるような事があれば、君主に対して大変申し訳なく、祖先に対しても申し訳ない」として、十六~十七歳の白虎隊は自刀したと記されています。武士の時代とはいえ、いまでは考えられない最後です。


どうして、戊辰戦争で新政府軍と戦うことを選んだかについては、別途詳細な説明が書かれた看板の最初を読んでもわかります。会津藩の藩祖である保科正之公は徳川三代将軍家光公の弟であり、徳川宗家に絶対忠節することが、藩是としていたことに他なりません。新政府軍(偽官軍?)が会津で何をしたかについては、エビデンスが私自身必ずしも得られていないので、ここでは敢えて書かないことにします。でも、伝承では相当悲惨な事(武士道にあるまじき行為)が新政府軍により行われたと伝えられています。会津の人たちはそれを忘れずに今日も生きているのかもしれません。その政敵とされた長州と呼ばれていた萩藩は、いまの山口県の萩市に当たりますが、萩市から会津若松市に、過去は精算してそろそろ姉妹都市を提携しないかと提案があった際に、まだ150年しか経っていないと断ったとか。


飯盛山には、さざえ堂と呼ばれるらせん階段のある仏堂もありましたが寄らずに下ることにしました。階段を降りきったところの横に、白虎隊伝承史学館があるのですが、あいにく年末年始で休館でした。飯盛山以外には、会津武家屋敷があり、観光客には人気のようでしたが、バスの時間の都合でそこに行くのはやめにしていました。ただ、予定時間よりも早く飯盛山を見終わってしまい、次のバスで駅まで帰ろうとしたのですが、30分くらい間が空いてしまい、さあどうしようかと、Google Mapを見ていたら、駅まで2Kmくらいであることがわかったので、歩いて帰ることにしました。道は真っ直ぐでしたので、30分くらい歩いて駅に到着しました。駅でも電車の時間までまだ30分以上あったのですが、幸い、電車はすでにホームに停車していたので早めに乗っていたら、いつの間にか出発時間になり、磐越西線に乗って郡山まで帰りました。
