人生について人生を俯瞰俯瞰力について処世術について

人生を俯瞰

 結論からいえば、人生を俯瞰することなど無理でしょう。なぜならば、この場合の俯瞰には時間軸が出てきて、未来の時間軸上のことも俯瞰しなければなりませんので、想像はできますが、俯瞰するための情報はほとんどありません。逆にいえば、それができればみんなすでに俯瞰して、自分の願った人生を送っているはずです。ただし、過去の人生を俯瞰することはできます。そんな過去を俯瞰して何か意味があるのかと思われるでしょう。たしかに俯瞰できたからといって、これからの人生が変わる可能性は必ずしも高くありません。でも論語には、「故きを温ねて新しきを知る」と孔子が言ったとされています。たとえば、研究者にとってはこれは必要不可欠なことです。いくら新しいことをやっていると本人が思っても、実は昔にすでにやっていた人がいた、ということはよくあります。過去の研究をよく調査しないと、やっていることが結果的に無駄になってしまいます。

 過去の過ちや失敗に学ぶのも将来にとっては必要なのですが、なかなかそう簡単にはいきません。結局同じ失敗を繰り返してしまいます。でも、それが失敗であったと気がついているだけでも、前向きに捉えている証拠だと私は思います。若い人はまだ振り返るほど長い人生は送っていないでしょう。でも、私のように60を過ぎると、ついつい過去を振り返ることが多くなります。肝心なことは忘れても、どうでもいいようなことで覚えていることが結構あります。さすがに赤ちゃん時代の3,4歳くらいまでの記憶はほとんどありませんが、意外と幼稚園や小学生の頃の出来事で特異に記憶されていることがあります。父親の仕事の都合で、幼稚園から小学校2年生まで、九州に住んでいましたが、母親と公園でどんぐりや落ち葉を拾ったこと、幼稚園友だちが落としたウルトラマン隊員のバッチを拾って一晩隠し持っていたこと、小学生になって、神社で悪ガキ友だちと爆竹で遊んだこと、その悪ガキと二人で立たされたこと(何でかは記憶がない)、学校の給食係で給食のぜんざい(おしるこ)を運ぶときに、あやまってひっくり返してしまい、泣いて家に帰ったこと、通学路にある並木に毛虫がいっぱい付いていたこと、などある意味どうでもいいようなことをなぜか覚えています。

 楽しかったことの記憶は徐々に薄れていくのですが、辛かったことの記憶はなかなか消えません。何といっても東日本大震災の記憶は死ぬまで消し去ることはできないでしょう。幸い死ななかっただけまだ救われていたと思えればいいのですが、それ自体、亡くなった方には失礼な思考です。それでも、いまだに思い出したくもない記憶です。高血圧になったこと、携帯の呼び出し音がトラウマになったことなどは、いまだに続く後遺症です。もし、あの震災がなかったら、いまどうしているのか、ということを考えることがあります。考えたところで何も変わらないのにもかかわらずです。どうしてそのような思考をするのかも不思議なのですが、いま住んでいるところには住んでいなかった、両親ももっと長生きしていた、私の血圧も上がらなかった、家族の人生も変わっていた、など。でも、これらの事象は震災がなくても、単に先送りされていただけかもしれません。幸い、震災の記憶も10年以上経つと、ほぼ冷静に振り返ることだけはできるようになりました。

 今まさに辛い経験をしている人もたくさんおられるでしょう。人生楽しくて仕方がない、という人もおられるかもしれませんが、そんなにたくさんはいないでしょう。人はどうしても今まさに起きていることだけで、辛いと思ってしまう傾向があります。実はもっと辛いことを過去に経験しているにもかかわらずです。一方、過去に楽しかったことを多く経験した人は、それらよりももっと楽しいことでないと、楽しさが半減するかもしれません。楽しかったことは過去の経験と比較しがちですが、辛いことはそもそも思い出したくありませんから、あまり比較もしません。でも私はいま、少し辛いことが起こたとき、震災の時の記憶と比較することにしています。そうすれば、あれ以上に辛いことはそうそう起きるものでもありませんから、震災のときに比べればまだましだと思えます。人生において辛いことをすでに数回経験した人は、今起きている辛いことも、それらを俯瞰すれば、耐え忍ぶこともできるのではないでしょうか。