世界遺産・平泉その1
2011年6月に平泉の中尊寺、毛越寺を始めとする5つの史跡が世界遺産に正式に登録されました。正確には世界文化遺産です。これについては、平泉町のホームページに詳細が記されています。当初、2008年の登録を目指して1997年から長らく活動をしていたようですが、あいにく一旦登録が延期されてしまいました。高橋克彦氏によれば、平泉の「浄土思想」というのが、審査委員には理解できなかったと指摘しています。それは、前回書いた清衡の「中尊寺建立供養願文」が、平泉で実現されていたことが信じられなかったのでしょう。でも、奇しくも2011年3月に東日本大震災が起こり、東北地方は甚大な被害を受けました。それでも、東北人の多くは自分より他人を思いやる行動をとりました。その時の振る舞いを見て、「浄土思想」が今日まで東北人の隅々にまで行き渡っていることを理解したのでしょう。2011年6月に正式に登録されました。あのような大災害が起きれば、民衆は大パニックに陥り、略奪・強盗などが多発するのが必然であると、審査委員のほとんどは考えていたのでしょう。でも、起きなかった。そのことが、ある意味衝撃的だったのかもしれません。ちなみに、高橋克彦氏は、阿弖流為(アテルイ)を題材にした小説などを書き、直木賞も受賞している岩手の小説家です。あいにく、私はそれらの小説はまだ読んでいません。
お盆休みの14日に平泉を見学しました。北上に前泊していたので、朝早くに向かいました。8時30分に開場とあったので、その時間に合わせて、東北本線に乗り、平泉駅で降りました。そこからタクシーに乗り、境内の入口に到着しました。岩手県はいま外国人観光客ですごく混んでいるという情報を入手していましたが、さすがに朝一の中尊寺は空いていました。一度来ていたものの忘れていたのですが、境内の山門を入って直ぐ、急勾配の坂道には参りました。月見坂と呼ばれている坂道を、息を切らしながら山登り感覚で歩いて行くと、少しなだらかな参道になりました。中尊寺には、本堂以外にたくさんの御堂が並んでいます。それぞれには深い意味があるようですが、それについては中尊寺をご参照ください。それらを全部見るのは無理なのでやめて、目標を金色堂に絞って向かうことにしました。
途中、参道から少しはずれたところに、西行の歌碑があると印があるので、そちらに向かいました。そこは、平泉が一望できる眺めがいいところです。西行の歌碑には、
ききもせず たばしねやまのさくら花 よしののほかに かかるべしとは
と書かれていました。蝦夷には桜などないと大和で思われていたのでしょう。奥州藤原氏以前に一帯を統治していた安倍頼時が、中尊寺から見える束稲山(たばしねやま)に1万本の桜を植えたとされています。それを見た西行が感嘆して読んだ歌のようです。前日の台風の影響で、束稲山と思われるところには雲が掛っていました。中尊寺のマップを見ると、大文字焼きの跡があります。
また元の参道に戻り、少し行ったところに中尊寺の本堂がありましたので寄って見ることにしました。本堂の中にはきらびやかな仏像が鎮座していました。調べてみたところ、丈六の釈迦如来のようです。ちなみに、丈六は十六尺のことで、一尺は約30cmですから4.8mになりますが、座像なのでその半分くらいの仏像になります。実は、「仙台再発見」の「定禅寺と勾当台公園」で調べていたところ、戦前まで錦町公園にも丈六の大仏が鎮座していました。これと同じ大きさです。2013年に新たに建立された仏像のようです。写真撮影もOk?のようでした。法事は主にここで執り行われているようです。もともと中尊寺は、嘉祥3年(850)に比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)が建立したお寺です。その後に、清衡が現在のように平泉に大規模に御堂や塔を造営しました。延暦寺から運ばれた法灯はこれまで絶やすことなく灯火続けているそうです。
本堂を出て、少し行ったところに金色堂がありました。話が長くなりそうですので、ここで一旦終わります。