トラベル日記日高見国

世界遺産・平泉その2

 前回の続きになります。中尊寺の本堂から少し歩くと、金色堂があります。拝観は有料で、1000円です。金色堂以外にも、讃衡蔵、経蔵、旧覆堂などが拝観できます。残念ながら、内部は写真撮影不可です。外からは見れません、見えているのは金色堂を覆っている覆堂です。金色堂の隣にある讃衡蔵で拝観券が売っているので、買いました。そして、まずは讃衡蔵に入りました。こちらも撮影不可です。中には宝物(ほうもつ)がたくさん展示してありました。阿弥陀如来、薬師如来、大日如来、千手観音菩薩などの仏像を始め、他にもいくつか展示されていました。それぞれ謂れがあると思いますが、詳細を知りたい方は調べてみてください。

 それらも貴重な展示物なのですが、それ以上に目を見張るものは、工芸品の数々です。詳細は書ききれませんので書きませんが、中でも、中尊寺経と呼ばれている、金字と銀字で一行ずつ書かれた一切経があります。一切経はお釈迦様の説教が書かれた経典です。国宝に指定されています。さらに、金色宝塔曼荼羅図(こんじきほうとうまんだらず)と呼ばれる十層からなる重塔の写経です。重塔をよく見ると柱や骨組みが小さな漢字で書かれた写経になっていました。百聞は一見にしかずです。これは直に見てみないとその凄さはわかりません。他にも国宝に指定された宝物がいくつか展示されていました。

 写真も撮れないし、置いたある物を記憶もできないので、讃衡蔵の出口付近にあるショップで、結構立派な写真集(いくらしたか不明)を購入して、讃衡蔵を出てきました。そして、金色堂に向かいました。以前一度来た時の記憶もまったくない状態で覆堂に入りました。

 覆堂の中に、一、二周り小さな金色堂があります。全体に金・銀で鍍金され、柱や側面には様々な装飾があるようですが、離れていてあまりよく見ることはできませんでした。夜光貝などを使った装飾もありました。須弥壇(しゅなだん)と呼ばれる仏像を設置した壇が、中央に一つ、左右にそれぞれ一つずつ、計三壇あります。それぞれには計十一体の仏像が並べられています。それぞれの中央には阿弥陀如来座像、左右に菩薩立像、周りに六体の地蔵立像、前には持国天と増長天の二天像が置かれています。これと同じ構成が、左右の須弥壇にもあります。それぞれに意味があるようですが、詳細についてはネットで調べてみてください。阿弥陀如来が中央にあるのは、極楽浄土を地上に表現するという当時の仏教の教えに従ったものでしょう。

 他にない金色堂の特徴は、それぞれの須弥壇に六体の地蔵を配置していることです。地蔵は地獄に落ちた人間を六つの苦業から救い出し、極楽浄土に導くとされています。この六体の地蔵は当時歴代の天皇家が亡くなった際に供養のため設置されたもののようです。実はここに清衡の深い読みがあります。ただ単に、奥州藤原一族の極楽浄土への往生を願っただけでは、またいつ大和朝廷側が攻めてくるかわかりません。天皇家を供養する目的であれば、さすがに大和朝廷も手が出せないというわけです。須弥壇の下には、清衡、基衡、秀衡、泰衡の遺体が安置されています。

 金色堂を出て、さらに奥の方に歩いて行きました。すると今度は松尾芭蕉の歌碑がありました。

五月雨の降り残してや光堂

 何処かで聞いたことがある俳句だと思ったら、

五月雨を集めて早し最上川

芭蕉さんは五月雨が好きだったのでしょう。

 そろそろ、奥まで来たので戻ろうしたところに、白神神社があります。その奥に能舞台がありました。お寺の中に神社というのも、少し変に思いますが、ちょうど、この日、14日夜に野外能が公開されるということで、能舞台の設営真っ盛りでした。来る前から知っていたので、これに巻き込まれないように朝早くに来ていました。あとで知ったのですが、白神神社は伊達政宗が建立して、能が好きな政宗のために、能が催されていたようです。したがって、江戸時代に建立されたもので、奥州藤原家の時代ではありませんでした。さらには急な斜面の月見坂には樹齢350年ほどの杉の大木が立ち並んでいますが、こちらも伊達家が植樹したそうです。源頼朝により滅ぼされた奥州藤原は主人がいなくなり、徐々に荒廃していった中で、江戸時代に平泉地方も統治していた伊達藩が再建を支援していたのか否かについては、定かではありません。