トラベル三内丸山遺跡(その2 土偶と子供)日本人再考日記趣味と勉強

三内丸山遺跡(その2 土偶と子供)

 「その1,六本柱」の続きになります。いきなり六本柱の話から入ってしまい、全体がよくわからなかったかもしれません。「特別史跡 三内丸山遺跡」は、有料で一般410円です。「縄文時遊館」にチケット売り場があり、入場すると縄文シアターや発掘物が展示されている常設展示室などがあります。縄文シアターで基本的な情報を仕入れました。その後、常設展示室で発掘物を見ました。すでに、顔の描かれた十字型の小型土偶や穴の空けられたヒスイなどがあることは事前に知っていましたが、その数の多さに驚きました。竪穴住居を造ったときに出た土が盛られた盛土が何カ所かあり、これらはその中から発掘されたようです。穴の空いたヒスイは、たぶん首飾りでしょう。坪型の土器などもたくさん発掘されています。その他には、黒曜石で出来た矢じりなど。でも、やはり特徴的なのは、小型土偶です。数個程度発掘されたのかと思いきや、百個近くが展示されていました。十字型の土偶がネット上ではよく紹介されているのですが、大きさはほぼ同じであるのに対して、形はみんな異なり、十字型でないものをあります。あと粘度を型に押し込んで付けたと思われる三点の半球状の突起がすべてに付けられていたようです。体の部位を象徴しているのかもしれませんが、どこまで解明されているか私も知りません。部分的に欠けて無くなっているものもありますが、たぶんすべてに、眉毛?と目と口からなる顔が描かれていたと思われます。顔の形がみんな異なることから、作者もしくは土偶が対象をする人?は別々であることが推測されます。

 顔を描いた小型土偶を作ったのはなぜなのか? その前に、縄文時遊館からさらに遺跡のある広場に入場するようになっていますので、そちらについて簡単に書き留めておきます。幸い、天気にも恵まれたのはよかったのですが、縄文時遊館を外に出た途端に、熱風が襲ってきました。遺跡の広さは想像していたものよりも遙かに広くて、はたして熱風の中ですべて見れるのかが不安になりました。まず当時からあったとされる広い道路を歩きました。そしてその道路沿いには小さな円形古墳状の墓がたくさん造られていることを知りました。大人の死者が埋葬されていたようです。「その1,六本柱」にも書いた通り、六本柱まで数百メートルほどの距離を歩いてゆき、到着してその大きさに圧倒されました。実はぜひともNikkon Z6で動画を撮ろうと、前回閖上海岸で間違った設定を修正して動画を撮りました。が、前回音声が取れなかったものが、取れるようになったのはよかったのですが、撮ってから視聴してみると、ほとんど風切音。あちゃちゃ、ということで、初心者はこれだからだめだとなり、動画はたしかに取れてはいるのですが、またまたお見せできる状況ではありませんでした。いっそのこと、スマホかGoProでも買って撮った方が格段にうまく撮れていたかもしれません。あと、1,2年は修行が必要そうです。

 話が脱線してしまいましたが、六本柱については「その1,六本柱」で紹介した通りです。それでもう一つ印象的だったのが、子供のお墓があることです。坪型の土器に遺体を入れて埋葬していたようです。八百くらいの土器が発見されています。火葬して骨にする習慣はないはずですから、坪の大きさからすると、生まれて間もない子供ではないかと想像します。死産か、生まれてすぐ病気で亡くなったか、ちょっと特殊な亡くなり方をした子供であると想像します。大人の墓があること自体、死者を祀る習慣がすでにあったことになり、単に生活の場だけではなく、もっと進化した文化的な営みがあったと推測されます。実際、三内丸山遺跡の六本柱だけでなく、同じく青森で発掘された小牧原遺跡には、石をたくさん環状に並べた環状列石が発見されており、何かしらの祭祀が行われていたとされています。あいにく時間の都合でこちらを見学することはできませんでしたが、列石と山とは深い関係があるといわれており、やはり自然環境、気候変動や火山噴火などが関係しているように想像します。さらに子供のお墓があることと、顔を描いた小型土偶、その土偶はみんな顔や形が違うこと、これらから勝手な想像を巡らせば、土偶を造ったのは子供が亡くなった母親であり、八百万の神になった子供の化身として、身につけていたか、祭壇などに祀っていたのではないか、という説が頭に浮かびます。 

 でも、もう一つ、奇形などで生まれてきた子供を救済するために、生きている内に土偶を母親が作って、悪霊?を土偶に閉じ込めて、盛土場所に捨てた、という説とか、まあ想像するといろいろ浮かんできます。もちろん結論を出す必要もありませんので、想像を楽しんでいるうちに、ますます縄文文明の神秘さ・奥深さにハマっていきました。いずれにせよ、自然環境が縄文文明に大きく影響していることはたしかです。祭祀などの文化が芽生える背景には、非農耕型定住生活をする上では、食べ物を確保するのが極めて死活的であったことがうかがえます。季節ごとに異なる食べ物を収穫・捕獲する中で、それらに対する感謝の気持ちや畏敬の念から、すべての物に神が宿る、「八百万の神」信仰が生まれたのでしょう。太陽神、山神、そして亡くなった大人、子供の御霊、すべてを敬いながら生きる、いわゆる「利他」の心が、我々日本人には1万年近くかけて遺伝子化されたというのが、これまで何度も書いた私の持論です。今回の旅行で、三内丸山には、顔が描かれた小型土偶がたくさん出土して、子供のお墓もあった、ということを知り、ますます持論が確信に近づきました。もちろん、みなさんの遺伝子にも組み込まれていると思っています。興味が出てきましたら、ぜひとも実際に実物をご覧ください。