トラベル三内丸山遺跡(その1 六本柱)日本人再考日記趣味と勉強

三内丸山遺跡(その1 六本柱)

 お盆休みの後半に2泊3日で北東北をひさしぶりに旅行しました。一番の目的は三内丸山遺跡を見ることでした。それ以外にもいくつか見て回りましたが、そちらについてはまた別途書きます。私のホームページをご覧の方は、私が縄文文明に並々ならぬ思い入れがあることには気づかれているかと思いますが、如何せん、書籍上の知識のみによる興味でした。やはり実物をこの目で見るのが理解を深めるためにも必須だと思い、この休みを利用して初めて実物を見てきました。実物を見て初めて気が付いたことが多かった実りのある旅行でした。三内丸山遺跡には東北新幹線で、仙台から新青森まで移動して、新青森から南(山)の方にバスで20分くらいのところにあります。「ねぶたん号」というループバスがありましたので、それを利用しました。2019年に三内丸山遺跡を含む19の縄文遺跡が「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界遺産に登録されました。その中でも象徴的な遺跡が三内丸山遺跡になります。最近、約1万6千年前の石器と土器片が大平山元遺跡から発掘されています。これが縄文初期とすれば、三内丸山遺跡は約6千年前から始まり、約千5百年近く続き、大規模集落を形成されていったとされています。ただし、ここでは縄文遺跡の歴史を書くにはあまりにも知識不足ですので、そのつもりはありません。

 私が特に興味を持っていたのは、直径約1mの栗の大木6本から造られた六本柱です。正式名は、「大型掘立柱建物」ですが、ここでは「六本柱」と呼びます。この柱は3本ずつが並列に並び、かつその間隔がすべて4.2mと正確です。どうしても理系の視点で見てしまうのですが、尺度を計る技術があったことがわかります。そして何より、あいにく学会では認知されていないようですが、縄文文明の書籍を執筆した小林達雄氏によれば、3本ずつが平行に並ぶ柱の向きが示す方向の一方が夏至の日の出、他方が冬至の日の入(三本柱の陰が一致したとき?)の方向を示していると書かれていました。現在、六本柱にはヤグラのようなものが付いていますが、小林氏はトンデモナイと怒っています。私も小林氏の考えに一票の気持ちで六本柱を見てきました。まずはその大きさに圧倒されました。元々あった場所は六本柱の穴跡が保存され、その隣に復元されていました。よくもこんなぶっとい栗の木を立てたものだと思います。どうやって立てたかはとりあえず置いておくことにして、少なくとも穴しか見つかっていないのに、ヤグラを付ける根拠は乏しいでしょう。住居として使うことはあり得ないとして、遠くを見るのに使う可能性はありますが、それならば4本で事足ります。さらに、敵を監視するためという発想は、縄文文明を多少理解している人ならば、それもあり得ないということはわかります。なぜならば、非農耕型定住生活をする上で、定住地を侵略しても、食料を確保する上で、あまり意味がありません。それでは何でこんな巨大な建造物を造ったのでしょう? 実際のところは誰もわかりません。そうすると、みなさん想像の域で考えます。そんなわけで私も勝手な想像を巡らしました。

 まず、これだけ太い栗の木を手に入れるためには、育つのに200年以上かかります。もともとブナや杉が多数あった場所に、三内丸山の縄文人は栗の木を植えて、ある時期からはほとんど栗の木に置き換わっていったことが年代ごとの種などを収集することでわかっています。食料としての栗であるとともに、たき火の燃料や建造物にも使ったのでしょう。このことから、最初から栗の木があったわけではないので、六本柱もたぶん、約千5百年近く続いた三内丸山の後半辺りにできたものと想像しました。それでは、なぜ後半からこのようなものが必要になったのかを想像すれば、やはり自然環境、特に気候の変動が大きく関わっていたと想像します。大きさから判断しても、実用的なものというよりは、なにか神聖なものを感じます。三内丸山の集落が形成し始めた時代は、現在よりも気温が2,3度高い温暖な気候でした。それにより海面も今より高く、海岸線はより内陸側に位置していたようです。一方で、火山も頻繁に噴火していた活動期に当たります。三内丸山では、加工された多数のヒスイ、黒曜石、琥珀などの飾りや矢じりなどが見つかっており、これらは日本では糸魚川沿い、北海道、三陸辺りに多く分布します。道路が複数見つかっており、一つは海岸まで続いていたことから、海路、船ですでに交易していたことを示唆します。

 ところがその後、徐々に地球が寒冷化してゆき、海面も下がり、栗の木も育たなくなってしまい、約千5百年の後に三内丸山の縄文人は突如居なくなってしまったようです。縄文人は南下して、より温暖な本州の南西に移動していったのでしょう。夏至や冬至の時期を正確に把握することは、非農耕型の定住生活をしていた縄文人にとっては、食べ物が取れる季節を正確に把握するのに欠かせなかったと想像します。1年でもっとも日が長い夏至と短い冬至も、約千5百年の生活の中で把握していったと想像します。そのような季節を司っている太陽が、八百万の神の代表である太陽神となり、豊作や人々の安寧、そして気候の温暖化や大地の沈静化を願って、何か神聖なものとして、この六本柱は立てられたのではないかと、勝手に想像を膨らせましたが、いかがでしょう。人々の安寧を願うという点では、今回の見学でもう一つ印象的だったことは、子供のお墓があったことです。現在の日本では大人も子供もお墓が区別されることはありませんが、やはり当時は、子供の生存率がまだまだ低かったと想像します。あと、奇形で生まれてくる子供も多かったようです。古事記には、「ヒルコ」の話も冒頭にあります。生後すぐに亡くなる子供も多かったため、子供のお墓が造られたのでしょう。合わせて、三内丸山遺跡からは顔を描いた小さな土偶が「多数」見つかっていることも初めて知りました。それらにはみなユニークが顔が描かれています。これは明らかに人(子供?)の顔を描いていると思います。その土偶は子供の生死と深く関わっていると、私は想像しました。

 文章が長くなってしまったので、続きは後日また書きます。