ダ・ヴィンチで俯瞰俯瞰力について日本人再考

ダ・ヴィンチで俯瞰

 ダ・ヴィンチといえば、みなさんご存じのレオナルド・ダ・ヴィンチです。1452年にフィレンツェで生まれたルネサンスを代表する芸術家として知られています。ダ・ヴィンチの代表作に「モナリザ」と「最後の晩餐」があることもよく知られています。それでは、モナリザがルーブル美術館、最後の晩餐がミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院にあるのはなぜかご存じでしょうか?実はそれを知ることにより、ダ・ヴィンチが生きたルネサンス、そして大航海時代のヨーロッパを「少し」俯瞰することができます。「ルネサンス」という言葉はフランス語です。15世紀のヨーロッパを振り返って、19世紀にフランスで始めて定義されたようです。歴史の教科書で名前しか知らなかった私ですが、いろいろ本を読んでいくと、実は日本にキリスト教を布教しに来たとされるフランシスコ・ザビエルにも深くかかわっています。ルネサンスとは、再生や復活を意味するフランス語ですが、その始まりは、14世紀中頃の寒冷化に伴ってヨーロッパで起きたペストの大流行と深く関係しているようです。このペストではヨーロッパ人口の約3分の1が減少しました。労働力を失ったヨーロッパ各地の領主は資金不足に陥ったため、当時台頭していた裕福な商人からお金を借りたりしていました。

 そんな裕福な商人の代表として、メディチ家の名前は聞いたことがあるかと思います。メディチ家は15世紀に薬局を経営して、薬、香料や香辛料など売って財を成し、それを元手にメディチ銀行を設立して銀行業を始め、巨万の富を築き上げました。メディシン(Medicine)は日本では医療と訳されますが薬という意味もあり、これはメディチが語源であるといわれています。ジョバンニ、コジモ、ロレンツォと当主が代を重ねるごとに、財力によりローマ教皇庁を中心とするキリスト教界とも深いつながりを持つことで、フィレンツェの実質支配者になっていきます。それと同時に、教会を建築する職人や壁画を書く職人などに多額の資金を支援するパトロンでもありました。そんな職人の集団である工房を運営していた彫刻家のヴェロッキオのもとで、ダ・ヴィンチも職人の1人としていろんな技術を身につけました。それは、単に絵画、彫刻、建築の技術だけに留まらず、多くの科学技術、中でも当時最先端の軍事技術なども身につけました。それゆえ、「万能の人」とも呼ばれるようになります。でも当時のイタリアは小国が乱立しており、フィレンツェは、ヴェネチア、ミラノなどと同じく一つの小国に過ぎずませんでした。メディチ家もフィレンツェを実質支配しているにすぎません。

 そんな才能溢れるダ・ヴィンチに目を付けたのが、ロレンツォです。ミラノ公国との間で平和協約を結ぶために、ダ・ヴィンチは半ば利用されてミラノ公国に派遣されます。ダ・ヴィンチは1482年から1499年までミラノ公国に滞在して、その間に制作したのが、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の壁画「最後の晩餐」です。1499年にフランスとイタリアの間で第2次イタリア戦争が勃発したため、ダ・ヴィンチはミラノからヴェネチアに移り、フィレンツェに戻り、1502年にローマ教皇アレクサンデル6世の息子チェーザレ・ボルジアの軍事技術顧問に就任します。要塞の新たな建築方法などを提案して、軍事技術者としての地位も確立しました。晩年は、フランス王フランソワ1世に招かれて1519年にフランソワ1世から与えられたアンボワーズ城近くのクルーの館と呼ばれる邸宅で死去しました。アンボワーズ城内の礼拝堂で永眠しています。ダ・ヴィンチを世界で最も優れた人物であると賞賛したフランソワ1世は、ダ・ヴィンチの一番の傑作であるモナリザを買い取り、その後、今日までルーブル美術館が保管しています。フィレンツェではなく、ミラノとパリにダ・ヴィンチの最高傑作がある由来です。

 ヴェネチア王国は、11世紀頃から艦隊や商船を有して東地中海の海上貿易を独占していました。また、十字軍にも港を提供していました。そのような背景のなか、ヴェネチアの商人は東からの香辛料の貿易も独占していきます。しかしながら、1453年に東ローマ帝国(ビザンチン帝国)がオスマン帝国に滅ぼされたことから、オスマン帝国が障壁になり東方からの貿易がしずらくなり、代わりに西航路が模索されていきます。1492年にはグラナダ陥落によりイスラム王朝の一つであったナスル朝はイザベル1世により滅ぼされて、イベリア半島はキリスト教徒により再征服されました。この後、スペインやポルトガルが西航路を使って台頭してきます。ヴェネチア人だったコロンブスもイザベル1世の支援を得て、西航路でインドを目指したのですが、ハバマ諸島に行きつきます。大航海時代の始まりです。ローマ教皇アレクサンデル6世は、大西洋にあるアゾレス諸島の西側に分界線を定めて、それより西の独占的支配をスペインに、東側の独占権をポルトガルに認めます。その協定に忠実に従って、1549年に同じくポルトガル人のフランシスコ・ザビエルが鹿児島にやってきました。ザビエルはイエズス会の創設者です。イエズス会は教皇の使命に忠実に従うことを信念とした男子修道会であり、異教徒は奴隷にしてもよいという教皇の指示にも忠実に従いました。またそれを、日本でも実行しました。

 ローマ教皇庁が支配していた中世では、神が絶対の時代であり、人間は卑しい存在でした。絵画も宗教画が中心であり、絵画を描く人も、芸術家ではなく、あくまで神に仕える「職人」でした。貿易で富を得た商人たちが台頭してくることで、人間の存在が見直された結果、ルネサンスが開花します。モナリザなどの「人物画」を描いたダ・ヴィンチは、まさにルネサンスを象徴する最初の芸術家であるとともに、戦争が絶えなかった時代を背景にして軍事技術者としても卓越した「万能の人」でした。ヘリコプターの設計図や人体解剖図などを描いていたことも知られていますが、このような時代が深く関係しています。ルネサンスが始まり、人間の立場が強くなって、相対的に教皇庁の立場が弱くなった中で、活路を大航海時代で見いだしていたのかもしれません。また、ダ・ヴィンチなどのような「万能の人」により、軍事技術が飛躍的に進歩して、最新式の大砲や鉄砲なども開発され、それを使って、スペインやポルトガルなどはキリスト教を布教するという目的?で世界中を征服したのでしょう。