スキー命がけ回想録

スキー命がけ

 院生の時代、世の中はバブルの真っただ中、最近の若い学生はバブルの雰囲気を知らないので気の毒といってしまえばそれまでですが、むしろ知らなくて幸いであったということもできます。周りは金(かね)、金、金、土地や株の成金、お立ち台で踊る女性、そしてスキーに狂う学生。折しも、映画「私をスキーに連れてって」が大流行して、私も原田知世のファンだったので、見に行きました。スキーをしないと人間じゃない、みたいな今では考えられない、風潮があったことも事実です。ユーミンの曲に洗脳されながら、御多分にもれず私もスキーに行きました。ただ、東北生まれにもかかわらず、子供の時にはスキーの経験がなく(小学校から、南方に転校)、初めてのスキーは修士の時です。スキーは自転車と同じで、子供の時に滑った経験があれば、一生その感覚は忘れないようですが、あいにく大人になってから自転車に初めて乗るのと同等だったので、結論からいえば、全然上達することはありませんでした。

 初めて連れていかれたスキー場は、蔵王温泉スキー場です。スキーが上手な研究室後輩(もしくは友人だったか記憶が定かでない)にそそのかされて、スキーが上達するコツは、頂上から難しいコースを滑るのが一番とかで、頂上までロープウェイで行きました。初めてのスキーですから、当然まったく滑れません。スキー板を八の字にしながら、転びながら恐る恐る滑る、というよりはずり落ちる感覚で下に向かっていったのですが、急に崖のようなところにたどり着きました。そこは、傾斜38度の「横倉の壁」と呼ばれる上級者には有名な場所でした。分度器で見る38度と実際の38度ではまったく違っており、まさに崖です。上級者がスイスイ滑るのを目の当たりにしながら、滑るというよりはいかに無事に降りるか、結構身の危険を感じながら、壁に手を当ててずり落ちました。幸いけがをすることはありませんでした。

 当時研究室では毎年3月にスキー合宿に行っていました。場所は、雫石スキー場や、安比高原スキー場です。1年を通して私がスキーに行ったのはその時だけで、2泊3日の合宿のみですから、上達する前にシーズンは終わっていました。後から気が付いたのですが、中学・高校とバスケットをやっていたせいか、左足の方が少し長くて、そのため荷重が左足にかかる傾向がありました。スピードのコントロールがうまくできず、3回転したことや、板がはずれてずいぶん上の方に置き去りになったこと、さらには顔面を雪面にぶつけて、目の上を切って出血したこと、そして膝を打って水がたまったこと、などなど、結構命がけのスキーでした。そうまでしてなんで行くのか、と思われてしまいますが、バブルで洗脳されていたのと、スキー場の頂上から白銀の世界を展望すると、たしかに好きな人は病みつきになると思います。いつも昼過ぎにしか研究室に来ない学生も、なぜかスキー合宿のときは、朝5時にちゃんと集合するのも、強力な魔力が働いていたと思われます。

 スキーの準指導員の資格も持っていた院生のO君は、スキーシーズンには午前中に泉ヶ岳スキー場で指導をして、午後に研究室に来るという生活でした。私が滑り方を教えてもらったのもO君で、さらにスキー用具一式の購入についてもアドバイスをもらい、それにしたがって購入しました。当時スポーツ用品店にはたくさんのスキー用具が販売されていました。中でも特徴的だったのはウエアです。当時は派手な柄で、肩幅のある上下のウエアで、例えれば、ガンダム(初代のガンダムしか知りません)のような出で立ちになります。それから、スキー板も種類が豊富で、O君にそそのかされて、12万円の上級者用を購入しました。ブーツなども含めて、トータル20万円強を出費したと記憶しています。そんな大金を注いだ道具なのですが、スキーに行った最後の合宿3日間だけの使用になり、その後スキーに行くのは止めてしまいました。

 スキーをやめてしまったのには、理由があります。安比高原スキー場に行くためには、車で東北自動車道を通り、3時間以上かかります。その日私が乗った車は、別のO君が運転して、助手席にK君が座り、私は後ろに座っていました。3月上旬でしたが、雪が結構降っていて、早朝でしたので高速道路にも積雪がありました。そんなところを、O君は100キロ近いスピードで走っていました。運転には自信があったようです。追い越し車線を走っていた時、当然「バン」という大きな音がして、何かにぶつかったわけでもないのですが、念のため速度を落として、ハンドルを左に切って、左の路肩に停車しました。O君と私は注意しながら車を降りて回りを見渡してみると、なんか左後ろのタイヤが変です。傾いていました。近くで見ると、なんと固定ボルトがすべてなくなってタイヤが傾いていたことがわかりました。さすがに私も血の気が引いてしまいましたが、O君はとっさに、他のタイヤのボルトを一つずつはずして、左後ろのタイヤを固定する4か所のボルトのうちの3か所に付け始めるではありませんか。O君の神経は結構ずぶといと、その時知りました。その後、速度を落しながら運転を再開して、直後のインターチェンジを降りて、ガソリンスタンドに至り、修理しました。あの時、もしハンドルを右に切っていたら、何が起きていたのかを想像すると、ゾッとします。実はこれがスキーをやめた直接の原因です。助手席に座っていたK君はその事件後、助手席に石のように固まっていたのをよく覚えています。行き帰りで起きた車のトラブルはこれだけではなく、アイスバーンで車が1回転したり、帰りの運転手が目を開けたまま寝ていたりと、さすがにスキーへの魅力が、これらのことで打ち消されてしまったわけです。就職してからは、1度もスキーはやっていません。