なんのため、これをする価値観について日本人再考

なんのため、これをする

  本末転倒という言葉が適切かどうかはわかりませんが、なんのためにこれをやっているかわからなくなることはありませんか?そんなときは、だいたい自分の意に反してなにかをやらされているときにハッと思うかもしれません。私の周りでも、典型的なものは学会活動です。最近少子化やメディアの変化などから、いろんな学会で会員がどんどん減っています。私の関連している学会もしかりですが、よく、会員のための学会なのか、学会のための会員なのか、わからなくなります。会員が減っていけば、自ずと収入も減って、行きつく先は破産です。その際は学会を解散するしかありません。でもすでに雇用している職員の首を切るのも忍びなく、会員に無償の仕事が回ってきます。本来、会員になりたい人が会員になるのでしょうが、どうも無理やり会員にさせられて、あげくの果てには半ば強制的にやりたくもない仕事が回ってきます。退会したくても周りの圧力で止められます。

  ビジネスとはそんなものだ、といってしまえば話は終わりになりますが、そんな状態になっていることに気が付くこともなく、気が進まないのにやっていることは他にもあるはずです。最近でも皆さんすでにひとつ経験しているはずです。ただし、ここではそれについては触れません。何のためにそれをしなければならないのか。自分のため?でもビジネスとして、利権に協力させられただけかも。気が付きませんか?結局、お金が絡んでいます。またまた登場するお釈迦様のお言葉ですが、「人間の欲望はヒマラヤの山を黄金に置き換えても、満足することはない」。生きるためのお金か、お金のために生きているか。世の中、いろんなところが、商業主義になってしまい、我々はそれに振り回されているように思います。生きるためには当然お金が必要です。たくさんあってそれに越したことはありませんが、一生かかっても使いきれないお金を貯めて、どうするのでしょう?

  幕末まで日本には武士がおりました。さすがに戦いがなくなった江戸時代には、武士も文官になっていましたが、「武士道」という言葉があります。あまりにも崇高すぎて私には実践不可能ですが、たとえば、戊辰戦争で、武士道を貫き、忠義を尽くして死んでいった、二本松や会津の若武者のことに思いをはせると、私でも涙がこぼれます。そんなことをしているから日本は時代遅れになるのだ、と思われる方もいるでしょう。人それぞれの価値観は違いますから、否定もしません。自らの意思でこれはやらねば、これをやりたい、というものにお金は必要ありません。ボランティア活動で、人を助けたい一心で活動に参加された方々は、「武士道」まで行かなくても、「大和魂」を持った方でしょう。日本人しか理解できない、「武士道」や「大和魂」を継承し続けることが、日本人が自らのアイデンティティに気付き、日本という国家が永続するために、絶対不可欠であると最近思えてきました。