いまだ消えない葛藤人生について

いまだ消えない葛藤

 東日本大震災では、津波で罹災したり、福島原発から退避するため、突然に自宅に住めなくなった方々がたくさんおられます。私の両親も、自宅が津波に会い、全壊はしなかったものの、使用不能で待避を余儀なくされました。幸い、妹夫婦が山形から急きょ車で駆けつけて、結局、妹夫婦の自宅で面倒みることになりました。今でも本当に感謝しています。たぶん、大多数の被災者は避難所での生活を経て、仮設住宅が完成してからそちらに移動したり、その前に、身内に引き取られたりしていたはずです。これまでの生活が突然破壊され、所有物もすべて失い、家族まで失ってしまった方々のことを思うと、いまでも本当に気の毒に思います。両親も震災関連死で亡くなってしまいましたが、それに比べれば、私は1ヶ月間不便な生活を強いられただけであり、いまでも普通に生活していますし、格段にましでした。もうあれから11年、でもまだ11年。またまた大きな地震もありました。これから書くことは、現実にみなさんが直面するおそれがあることですが、なかなか表に出しづらいことです。でも、今後のため、敢えて書くことにします。

 被災した方々は本当に気の毒なのですが、実はそのような身内を引き取って、一緒に生活を始めた方々もたいへんだったはずです。長男家族の自宅で同居を始めた両親、その逆で義理の両親と同居を始めた嫁と息子家族、両親を失った子供を引き取った叔父家族、などなどいろんなケースがあったかと思います。みなさん、身内のために手を差し伸べたわけであり、まさに自己犠牲を覚悟した利他の行動です。被災した方々の立場になれば、途方に暮れているところに救いの手を差し伸べてくれたわけですから、一生忘れることはないでしょう。でも、よかれと思ってとっさに起こした行動が、時間が経つにつれて、残念ながら辛い現実に直面した場合もあったかと想像します。私の両親の場合では、住み慣れた地元から、周りに知り合いが一人もいないところでの生活が、自宅の後処理もしないままに突然始まりました。当然ながら生活のリズムが崩れてしまったため、今から思えば母親はすぐに体調を崩していたようです。父親も気丈に振る舞っていましたが、体の異変が顕在化しました。胆嚢炎になり、手術して胆嚢を摘出しました。

 その後、震災から9ヶ月後に両親は私が引き取り仙台に移り住みました。私の家族にとっては、青天の霹靂だったようです。同居後、どのような状況になったかは想像がつくかと思います。よって、我が家のことはこれ以上書かないことにします。父親が脳梗塞で救急搬送ののち入院して、その直後に母親は体調を崩して、病院で見てもらったところ、末期のがんであることがわかりました。手術もしましたが、もう手遅れで震災の2年後に亡くなりました。父親は退院したものの、言語障害と歩行障害が残り、要介護4の状態で介護施設に入所して、6年後に亡くなりました。ここからは一般論として書きますが、親子3,4人で生活している家族に、突然両親も面倒を見なければならない状況は、精神面のみならず、物理的にも相当な負担をかけてしまいます。まずは、両親が寝る場所を確保しなければなりませんし、食事の準備やその費用も負担が増えます。血のつながった親子なら、いざ知らず、必ず血のつながっていない旦那や嫁がいますから、特に旦那の両親を引き取って生活を始めた嫁と姑の関係は、想像に難くはないでしょう。両親も体調を崩しますが、受け入れた方も体調を崩してしまいます。それを見ている子供も精神的に辛い立場に置かれることも想像に難くないでしょう。

 それではどうすればよかったのか? 私の中ではいまだに葛藤が続いています。よかれと思って取ったはずの、とっさの行動が結果的に間違いだったとは決して思いたくはないのですが、もし震災後、両親がそのまま避難所に避難して、その後、仮設住宅に入居していたら、どうなっていたのか? 周りには同じく避難してきた地元の人たちがいます。お互い助け合い、支え合うことができたはずです。避難所生活は年寄りの両親にとっては過酷であったことは想像に難くありません。でも、地元のコミュニティから突然切り離されて、知っている人が誰もいない場所で引きこもった生活と、本当はどちらが良かったのか? このような現実に突然直面しましたが、ゆっくり考えている余裕などありませんでした。人間、衣食住が満たされていても、孤独になってしまうと、老いも早まるかもしれません。みなさんが、このような現実に将来直面することがないことを祈っています。