人生について価値観について処世術について生(う)まれて、生(い)きて、死ぬ

生(う)まれて、生(い)きて、死ぬ。

 通勤中の路上で、ふと、芋虫が道路を必死?で横断しようとしていました。それを見て、この芋虫は何のために生まれてきたのか?と、ふと考えてしまいました。本人?彼?彼女?こいつ?はそんなこと考えたことはないでしょう。この先、車に踏まれて確実に死ぬということは、私ならすぐわかりますが、本人はこの先に起きることなど予想もしないでしょう。スズメが集団で、草刈あとで何かを食べているのを見て、お腹がすいたと思って食べているのか?野良猫が庭にひょっこり現れて、庭木の手入れをしていた私とふと目があった瞬間、こいつは何を思ったのか?など、時々ふと考えることがありますが、そんなの私だけでしょうか?庭にセミの幼虫が住み着いていて、7年も地下で生活し、地上に出てきて、7日しか生きられない。でも必死に鳴いている。そんな一生を、セミはどう思っているのか、なんで7年も地下にいるのか、飽きないのか、不思議でしょうがない、というようなことを以前すでに書きました。ゲジゲジやムカデも時々庭で見つけますが、君たちは自分が自分であることをご存じか?カフカの「変身」には、ある日起きたら、蜘蛛のような大きな化け物に変身していた主人公の心境が切々と綴られています。これは、まさに、もし蜘蛛だったら、何を思うかを、カフカが想像したのでしょうね。私も読んだことがありますが、一番印象に残っているのは、主人公の妹の心境です。最初は、兄が化け物に変身したことを理解していた唯一の存在だった妹が、最後にはそれを忘れてしまい、この化け物を家に残して、家族とともに引っ越していってしまった、というある意味、とても悲しい結末でした。もし、道路を横断していた芋虫がこの化け物と同じく、誰かの生まれ変わりか、もしくは意識を持っていたとすれば、変身の主人公のような心境なのでしょう。でも、そんなことはない、と信じます。

 人間は、幸か不幸か、自分を認識します。「我思うゆえに我あり」はデカルトの言葉として有名です。いろいろ世の中を疑ってみても、それを疑っている自分の存在は疑う余地がない、というものですね。たとえば、動物に、鏡を通して自分の姿を見せて、自分だと気が付くのは、かなり高度な知能を持った哺乳類だけです。犬でも、鏡を見せると吠えています。人間は、生まれながらにして、母親に接して、家族に接して、自分以外の存在も認識します。ただし、生まれてすぐに「唯我独尊」と言ったお釈迦さまではありませんので、普通の人間は、生まれてすぐに、なぜ生まれてきたかは考えません。というよりは考えられません。大人になって、「どうして自分は生まれてきたのか」と、一度は考えたことがあるでしょうね。少なくともいえるのは、両親の存在がなければ、決して生まれてくることはありません。私の母方の祖父は、戦中、海軍の職業軍人で、戦艦武蔵に乗船していましたが、沈没した時には下艦しており、死なずに済んだと聞かされました。沈没艦に乗っていたら、いまの私もいません。生まれてきたことに疑問を感じる前に、生まれてきたことの確率は天文学的に低いことはすぐわかります。ダーウィンの進化論が正しいと仮定して、地球上の生命が誕生したのが、何億年前か知りませんが、それからこれまで繰り返されていた交配の結果、我々は存在します。それが仮に1億年として、1千万回交配があっただけでも、1千万分の1?以下の確率でしょう。そのうち1度でも番狂わせがあったら、いまここにはいません。まさに、奇跡的なことです。自分がいるゆえに、自分が生まれてきた確率も知ることができます。まさに、「我思うゆえに我あり」。それでも、人は、「生きるのがつらい」、「もっと幸せになりたい」、「生まれてこなければよかった」などと、考えたりします。

 たった一度の人生。後悔しないように生きたい、と思っても、後悔先に立たずで、あの時、こうしていれば、いまはもっと別の人生があったかも、と私も時々考えます。「もう死にたい」と思って、発作的に自殺する人が、最近特に若者に増えており、20代、30代の死因の1位が自殺です。いろいろつらいことがあれば、人はそれから逃れたいと思います。私もこれまで、「ああ、死にたい」と口ぐせになっていたことはありました。でも、本当に死のうと行動を起こしたことはありません。仏門にでも入ろうかと安易に考えたことはありましたが。まして、死んだ後、どうなるかなって、自殺した人が考えることはないでしょう。唯一神を信仰する、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などでは、死後に「最後の審判」を受ける日をひたすら待つことになっています。そして、生前の行いに基づき、天国か地獄へ行きます。これらの宗教の信者でなくても、日本でも、悪いことをしたら、閻魔大王様に地獄の窯で茹でられるぞ、ということは子供のころに聞かされたことがあるかもしれません。ヒンズー教や、お釈迦様が開祖した仏教では、「輪廻転生」して、生まれ変わるとされています。ヒンズー教では、生まれながらにして、カースト(身分)が決められており、一生その身分に沿って生きる必要がありますが、輪廻転生により、別のカーストに生まれ変わることができるとされています。商人や農民のヴァイシャから、貴族のクシャトリアに生まれ変われるそうです。ちょっと「都合」のいい宗教?制度?かなとは思います。浄土真宗の開祖である親鸞上人は、その教祖に当たる浄土宗を広めた法然上人は三度生まれ変わった、と言っており、親鸞自身も自分は聖徳太子の生まれ変わりと言っています。

 本当に何に生まれ変われるか確信できるなら、いまの人生もまったく違った生き方になるでしょう。でも、あいにく、だれも自分の来世はわかりません。そして、前世もわかりません。したがって、今が来世でもあり、前世でもあるわけです。これまでの人生、本当に楽しかった、と思える方は本当に幸せな方でしょうね。私自身、あの時こうしておけば、もっと違った人生があったはず、と思えるようなことばかりで、まさに後悔先に立たずばかりです。でも、過去に戻りたいかと言われれば、もう結構ですと言ってしまうでしょう。今の自分が、芋虫であると思っている人はいないでしょう。スズメでも、猫でもなく、自分は人間だと思っているはずです。スズメのように空が飛べたらいいなと思うかもしれませんが、前世が何であれ、来世が何になるのかはともかく、現世では、芋虫でなく、ゲジゲジでもなくて、よかったと思うはずです。人間である自分を見る視点を少し変えてみれば、人間であるだけで幸いだったと思えてきます。辛いことばかりが続く人生に嫌気がさしている方もいるでしょう。でもそんな辛い人生を乗り越えて、過去を振り返ったら、自分の生きた軌跡が、楽しかったことも、辛かったことも、「思い出」として、笑って思い出せるようになればいいですね。人は、うまれて、生きて、いつか必ず死にます。生きているうちに、いつかきっと、明るい光が射す日が来ることを信じて、前向きに生きましょう。