日本人再考日高見国

柵と城

 先日の国府多賀城の話の続きです。多賀城があった当時に、その周辺の地域にも柵(さく)や城と呼ばれたところがあったことが、東北歴史博物館にあった地図に示されています。なお、柵はこの当時、「き」と読まれていたようです。その中で、胆沢城(いざわじょう)は安部氏が拠点としていたところで、先日行った北上の少し北にあります。前回も書きましたが、それぞれ、柵や城として示されていますが、大和朝廷側の解釈では、それらは出先機関である国府多賀城のさらに出先機関、いわゆる今で言う派出所みたいなものかと。 柵が蝦夷、城が大和朝廷の支配下に入った、いわゆる陸奥国側であるという説を唱えている人もいます。いまとなっては、その真偽は定かではありませんが、時期はともかく、もともと蝦夷と呼ばれていた日高見国が徐々に陸奥国になっていったことはたしかでしょう。たとえば、城輪柵跡(きのわのきあと)は、出羽に造られた国府で、現在の酒田市にあります。日本海側の最北拠点だったとされており、もとは現在の山形県庄内市にあった出羽柵(でわのき)が移されたという説があります(現在の秋田城のところに移されたという説もあります)。

 見てみると、胆沢城以南、多賀城以北にある柵や城は、宮城県内に位置しているのがわかります。その中で、一番北(いまの栗原市)に位置している伊治城(いじじょう)について調べてみたところ、神護景雲元年(767)にもともと蝦夷の族長だった、伊治公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)が朝廷側に帰属して統治していた城とされています。詳細についてはネットに書かれていますので、ここでは触れませんが、その名前に特徴があるのは、「公」が姓であり、これは朝廷側に帰属していることを意味しています。また、「呰麻呂」は和人に用いられる名前であり、朝廷に帰属したときに命名、もしくは改名したのではないかとされています。伊治公呰麻呂が有名なのは、宝亀11年(780年)に反乱を起こして、多賀城を焼き討ちしたとされています。これは、東北歴史博物館の説明にもありました。なぜ、焼き討ちしたのかはよく調べていませんが、「反乱」というのは、あくまで大和朝廷側から見た解釈かと思います。

 桃生城(ものうじょう)、赤井遺跡とありますが、実家が近くにあったこともあり、聞き慣れた名前です、子供の頃に桃生郡矢本町に住んでいましたが、2005年に東松島市になり、桃生郡は消滅しました。。陸奥国の時代にあった桃生城由来の郡名であることは間違いないでしょう。WIkipediaによれば、桃生城は天平宝字3年(759)に朝廷側の藤原朝狩により築城されたとされています。その後、蝦夷に攻められて占領されたり、それをまた朝廷側が取り返したりと、騒動が絶えなかった城であると記されていました。ただし、その信憑性は必ずしも確かではないようです。桃生にそのような由来があることは、たぶん地元の人もほとんど知らないでしょう。赤井という地名は現在もあります。石巻市に赤井があり、仙石線にも陸前赤井駅があります。この辺りについては、これからも引き続き探索してみたいと思います。

 一つ、これまで調べた当時の関連した歴史を時系列的に見ると興味深いのは、724年に大野東人(おおののあずまひと)によって多賀城が創建した後、749年に涌谷で黄金(こがね)が発見されています。畿内七道地震が734年5月18日に起きて、聖武天皇が仏教に帰依して東大寺の大仏が造られて、その鍍金に涌谷の黄金が使われたとされています。桃生城は759年、伊治城は767年に築城とされています。もう一つ、新田遺跡が現在の大崎市にあります。涌谷はまさに桃生城と新田遺跡のちょうど真ん中辺りに位置します。平成2年から発掘が始まった新田遺跡には、新田柵があったとされ、天平9年(737)に設置されたとあります。ただし、黄金が発見された年よりも、前に設置されたことになります。はたして、この周辺にたくさんの柵や城を設ける理由が、単に蝦夷を支配下に置くだけだったのかは、いまとなっては想像するしかありません。

 最後は、坂上田村麻呂が延暦21年(802)に胆沢城を造営して、実質的に安部氏の支配下にあった北上で、蝦夷の族長だった阿弖流為が降伏して、蝦夷は滅亡したとされています。胆沢城も、もともとは蝦夷の支配していた地域が徐々に朝廷側に奪われていく過程で築城されたのだと、私は理解しました。 胆沢城は日高見国を知る上で、中心的な存在であり、そこを統治していたとされる安部氏の由来も、なかなか興味深いものがあります。まさにいまそれを探索中ですが、まだまだ探索が足りないので、また後日ご紹介します。