北京とハバロフスク回想録

北京とハバロフスク

 大学院博士課程後期(ドクターコース)に在学している間、1986年に北京と1988年にハバロフスクで開催された国際会議に出席しました。北京がそもそも初めての海外でしたし、なぜかどちらも当時共産主義国でした。いきなり共産主義国だと、ちょっと気が引けたのではと思うかもしれませんが、まだ若かったせいか、怖いもの知らずというか、むしろワクワクしながら海外旅行に行く気分で出かけたように記憶しています。

 まず北京の第一印象ですが、建物の大きさや道の広さが日本の3倍くらいあるのに驚き、結構カルチャーショックでした。北京友誼賓館(北京フレンドシップホテル)という外国人向けのホテルに宿泊しました。ホテル内外の環境があまりにも違っていて、ホテル内は私たちがよく知っている高級ホテルであったのに対して、ホテルの外は、大量の自転車が行きかう実態経済下の中国でした。お金は中国人民元ではなく、外国人用の兌換紙幣です。外国人専用のショップで使用することができました。お土産などの種類も豊富で、我々から見れば観光地にある標準的なショップといった感じでしたが、当時の中国一般市民には買うことができないものが置いてあったわけです。当然ながら、兌換紙幣が使えるところの物やレストラン、ホテルは人民元が使えるところに比べて、10倍以上?高かったようです。

 残念ながら会議の様子はほとんど覚えていないのですが、一番記憶に残っていることは、北京市の地図があり、ホテルの2区間先くらいに北京動物園がありましたので、気楽な気分で行ってみたことです。父親からもらったアサヒペンタックスのフィルムカメラを首からぶら下げて、知り合いと共に外の道を歩くと、やたらとカメラがジロジロ見られているのに気づきました。当時の一般市民にしてみれば、珍しいものを首からぶら下げていたようです。まっすぐの道を進めば、動物園に着くはずの地図を頼りに歩いていたのですが、どうも地図上の次の交差点まで歩くのに1時間近くかかってしまい、予想以上の時間(たぶん2時間くらい?)を費やして動物園に到着しました。ところが、その日はすでに閉園になった後だったわけです。しかたなく、翌日改めて動物園に行き、無事パンダを見ることができました。ただし、パンダはみんな寝てました。

 会議の懇親会では、着席スタイルの本格的な中華料理をいただきました。焼きあがった北京ダックが席間を移動して参加者に観覧されていました。会議ツアーでは万里の長城を見学しました。道路がまだ舗装されておらず、デコボコ道を数時間(3時間?)かけて辿りつきました(その後また行った時は高速道路ができていました)。とにかく、初めての海外旅行だったので、見るものすべてが新鮮で、文化の違いを感じて、大量にお土産を買ってしまい、スーツケースに入りきれないので、現地で買った大きなナイロン製の簡易バックに詰めて、帰路に着きました。成田空港に到着して入国を終え、出口を出たところで大きな荷物を持ってキョロキョロしていたところ、地上アテンダントの若い日本人女性に、「Are you Chinese?」と声を掛けられ、とっさに「I am Japanese」と答えてしまったことを、なぜか覚えています。買ったお土産の中には、2枚の大きな絨毯(1枚はパンダ柄、もう一枚は虎柄)がありましたが、パンダ柄の絨毯は実家にあげて、虎柄のものは確か自宅にあるはずですが、行方知れずです。

 2度目の海外として、日ソ国際会議でハバロフスクに行ったときは、まだソ連の時代です。日本から行くためには、唯一新潟空港からフライトがありました。アエロフロートに乗って、急上昇、急下降、そしてハバロフスクに到着しました。当時は軍人が操縦していたようで、通常の民間機では経験できないようなフライトでしたが、着陸だけは見事でした。これが最初の洗礼だとすると、次の洗礼は入国審査で訪れました。審査の際に、持っていたドキュメントやOHPシート(当時は透明シートに発表用資料をコピーして投影して発表していた)の提出が求められ、奥の方に持っていき、しばらくしてから返されました。他にも同じ会議に出席する先生や院生などもおり、全員の資料を確認するのが終わるのに3時間以上待たされました。

 無事入国して、宿泊したホテルは例によって外国人専用の立派な?ホテルでした。驚いたのは、各階のフロアには係員がいて、そこで鍵を借りて部屋に入り、外出するときはそこに預けるシステムになっていました。私は参加していませんが、後日ウラジオストークで同会議が開催された際、N大学のN先生が外出するため鍵を預けて戻ってきたら、スーツケースがなくなっているのに気が付きました。それを聞いたK大学のS先生は、心配しつつも同じことは起きないだろうと翌日出かけて戻ってきたら、今度はS先生のスーツケースではなく、スーツがなくなっていたということです。その後どうなったのかについては、聞いたような聞いてないようなよく覚えていませんが、とにかく各階のフロアで鍵の受け渡しをするわけです。

 少し脱線しましたが、初めてのソ連ということもあり、神秘に満ちた共産国でしたから、同年代の院生らと市内を歩いて見学しました。まず目についたのは、4人に1人くらいの割合で軍人が歩いていたことでした。でもそれ以外の市民はまったく普通の人たちで、ちょうどその頃日本がバブル絶頂ということもあり、むしろなにか素朴な雰囲気が感じられました。食料品店に入ってみたのですが、棚がたくさんあるのに、商品がほとんどなかったのには驚かされました。とにかく物が足りない状況がわかりました(その数年後にソ連は崩壊)。でも、北京と同じく外国人専用のショップがあり、そこには豊富な品々が陳列されていました。お土産に大きなマトリョースカ人形を買って、それはいまでの飾ってあります。

 見学を楽しんでいたところ、球場のようなところが賑やかだったので、外からのぞき込んでいたら、入口にいたロシア人に中に入れと指図されて、恐る恐る中に入ったらば、何かの試合、サッカーかラグビー?、が開催中でした。ところが、観客席に目をやると、なんと軍人の大会だったようで、全員軍服を来て応援していたわけです。さすがに血の気が引いてしまい、他院生といっしょにおずおずと立ち去ったことをよく覚えています。ホテルの周りには高い壁の家のようなものが点在していたのですが、そこを覗き込んでみると、戦車が置いてあり、砲塔がホテルの方を向いていました。なにかあったら、完全に人質になるようなところに泊まっていたようです。

 会議自体の中身はいつもすぐ忘れてしまうのですが、一つ印象に残っているのは、我々日本人はOHPを使って発表していたのですが、現地ではまだOHPも普及しておらず、原稿を撮影したフィルムを投影して発表したり、中には偉い先生が資料もなくロシア語で話しているものを、若い研究者が英語に訳して説明するといった発表方法だったりとか、何を話しているのかさっぱりわからず、挙句の果てには質疑応答がロシア語になってしまって、唖然とした記憶があります。

 怖いもの知らずで参加して、いろいろ洗礼を受けて、後で知ることになるのですが、日本からもその後に偉くなった先生がたくさん参加していたようです。そんな先生方とホテルの地下にあった日本料理店(店員はみんなロシア人)で夕食を兼ねた宴会で盛り上がりました。ここでは書けないような内容の話などもありますが、参加した先生方や同世代の院生ともすっかり知り合いになることができました。まだ若かったその後に偉くなった先生の、人となり、端的に言えば普通のおっさんとなんら変わらないことを早めに知ったことは、その後の研究活動にたいへん役立ったことは言うまでもありません。最後にちょっとだけ触れると、会議に参加していた事務局の若いロシア人女性は、いまでいうザギトワのような超絶美人ばかりで、思わず目がくらんでしまい、一緒に写真も撮ったりしたのですが、その写真も現在行方知れずです。