仙台再発見日記

元寺小路の変遷その1

 「定禅寺通の変遷」では、元々あった定禅寺が明治になって廃寺になり、その後、その周辺が現在までに大きく変貌してきたことを書きました。その最終形が現在の定禅寺通です。さて、その続きになりますが、いま「元寺小路」と呼ばれている通りに沿って、さらに調べてみました。その辺りの古地図を前回同様、4つ並べて編集したのが下の図です。

 まず、天和3年の地図を見ますと、定禅寺のあった場所から元寺小路に沿って、たくさんの寺院があったことがわかります。元寺小路という呼び方は、元寺があった小路ですから、これら寺院があった時の呼び方でないはないでしょう。あいにく、地図には通り名が書いてありません。「寺小路」と呼ぶことにします。その寺小路には水色で示したように、四ツ谷用水の支流も流れていたことがこれまでの調査でわかっています。また、帯状に太く黄土色でラインマークした部分がありますが、これは上町段丘の縁を示しています。ここに寺院の坂道を設けて、それを登っていくとそれぞれの寺院があったのでしょう。仙台城下町を造る際に、この場所は青葉城本丸から見て、鬼門である北東の方向に当たり、伊達政宗ならびに代々の伊達藩の殿様が鬼門を封じるために、たくさん寺院を建立したようです。ちなみにこのさらに北東には仙台六芒星の頂点の1つである仙台東照宮があります。

 定禅寺の隣には、観喜院、千手院、そして梁川八幡宮(やながわはちまんぐう)が続きますが、このうち梁川八幡宮は、後に滝澤神社との社地交換により、川内に遷宮されました。現在の亀岡八幡宮に当たります。なお、現在、梁川八幡宮は福島県伊達市にもあります。「伊達」市というくらいですので、深く関係しているようですが、これについてはまたいつか調べることにします。その跡地には、滝澤神社と等覚院が建立されて、大仏が設置されたと記録されています。それから、定禅寺とともに、「花京院」も仙台人は聞いたことのある地名になっていますが、肝心の花京院もいまはありません。天和3年の古地図をよく見たら、花京院と書かれているのを見つけました。

 寺小路は上町段丘の縁に沿って東側まで続きます。それと平行して、名掛丁通があるのがわかります。名掛丁通は、青葉城本丸から大町を通り芭蕉の辻を通る大通りの一部になっている通りです。現在、名掛丁は仙台駅が出来てJR東北線で分断されて東側はなくなっていますが、当時は現在の仙台駅の東まで続いていた通りでした。その名掛丁通に平行するように、寺小路も東まで続いています。

 次に、明治13年の地図を見ますと、寺小路にあった寺院が結構なくなっています。これは、明治になって、多くの寺院が廃仏毀釈により廃寺になったあおりを受けたのでしょう。定禅寺が陸軍病院になったことは「定禅寺通の変遷」で書きましたが、その隣に並んでいた寺院もほとんどなくなり、観喜院と千手院から代わったと思われる等覚院も姿を消して、代わりに地図には「大聖寺」とだけ記されています。 この大聖寺についての情報は見つけられませんでした。大聖寺の東には大仏前丁と記載があり、「定禅寺と勾当台公園」で書いた辻標七番にある表記、「大仏前」と一致します。大仏前という位なので、明治13年の時点でも大仏だけはまだ鎮座していたのでしょう。ちなみに、辻標七番にもう一つ記載されていた「同心町中丁」ですが、明治13年の地図には辻標七番が立っている場所の通り名にちゃんと記載されていました。

 寺小路は名前が元寺小路に代わりましたが、その場所は天和3年の時と変わりません。一方、陸軍病院東横の外記丁通から続く上町段丘に沿った通りは、花京院通と記されています。その通り沿いにあった花京院はなくなりましたが、その名前が通りに付いたことがわかります。話は少しずれますが、天和3年と明治13年の地図を比べて、元寺小路と花京院通の幅がずいぶん違うことに気がつきます。まだGPSや航空機もない時代ですから仕方ありませんが、その割には、天和3年にここまで精細に地図が造られているのは凄きです。

 話が少し長くなってしまったので、昭和3年、昭和27年については、また書きます。