俯瞰できないのはなぜ?
年を取って、年寄り同士で話をしていると、自分の考えが正しいとみなさん一様に頑固です。60年、70年、そして80年人生を積み重ねていると、長年蓄積された知識は石になってしまい、砕くことすらできなくなってしまうのでしょう。こんなことを書いている私も周りからそう思われているのでしょう。特に、周りの環境が限られている人はどんどんそのようになってしまうかもしれません。私は幸いまだ現役で、周りにはこれまた幸い20代の学生ばかりですので、否応なく世代間のギャップを感じることができます。それゆえ、自分の考えが古いということを自覚することもできます。ソクラテスのいう、まさに「無知の知」です。でも退職して回りに若い人も居なくなった途端、1年もしないうちに、知識だけでなく、頭自体が石になってしまうのでしょう。
私のいる組織にはいまでも「同窓会」というのがあります。でも参加しているのはほとんどがお爺さんです。どうして、若い人が参加しないか、みなさん困っています。そこで、お爺さん同士でその解決策を考えています。同窓会は存続すべきであるというのがまずは前提ですから、若い人たちも同窓会に参加させるべきであるという話になります。でも、若い人たちの意見を聞く機会もありません。実は若い人たちは、同窓会など必要ないと思っているようです。そんなのなくても、すでにLINEなどを使ってみんな繋がっていると思っています。それでは、若い人の頭や知識はまだ豆腐の状態かといえば、そうでもなさそうです。大部分の若い人はちゃんとした形の豆腐でしょうが、一部には、形の崩れた豆腐や変色した豆腐、そして豆腐自体になっていない豆乳の状態など、不完全な豆腐も見受けられます。昔の人はたぶん豆腐の形はしっかりしていたのでしょう。ただ、年を取って堅くなってしまっただけかもしれません。でも最近の一部の若い人の歪な豆腐は年を取るとその形で固まってしまうのでしょうか?
どうしてこんなに変形してしまったのか?昔の人の知識は、本や雑誌や新聞やラジオやテレビが中心で、後は口伝えで得ていました。インターネットなどない時代ですし、私もその1人でした。良かれ悪しかれ、適度な量の情報からほぼ共通した知識を持っていたのでしょう。その知識に基づき、周りを俯瞰していたと思います。それでは、最近の若い人はどうでしょう。インターネットの急速な普及で、国内だけでなく世界中の情報が瞬時に手に入るのはいいのですが、情報量が多すぎて溢れてしまい、もはやすべてを俯瞰するのは不可能です。それに加えて、情報が魑魅魍魎となり、どれが正解かがわからずらくなっています。自分が正解だと思う情報を信じるしかありません。たとえば、Yahooリアルタイム検索で、あるワードを検索すると、リアルタイムでツイートやチャットが流れてきます。たとえば、それが現在1万件だったり、100件だったり。魑魅魍魎ですから、その中から自分が信じるものを拾い出します。でも、軸足がしっかりしていないと、これかあれかと振り回されてしまいます。たった100件の情報でも真実だと思ってしまうこともあるでしょう。
私もよく、Yahooリアルタイム検索を見ています。その際に大量に流れてくるツィートの中から、正解と思われるものを拾いながら、情報をアップデートしています。振り回されることはありません。なぜならば、エビデンスに基づき、次の情報を得ているからです。それではそのエビデンスはどこから得ているのか。テレビでもなく,新聞でもなく、雑誌でもなく、口コミでもなく、当然、SNSからでもありません。書籍の読書からです。この4年近く、三桁になる数の本を読んで、自分なりにエビデンスを得てきました。すでに何度も書いていますが、一つの事象に対して、多角的に見るために、正反対の意見を照らし合わせて、最終的に自分で正しいと思うものをエビデンスにしています。そのエビデンスにより軸足が固定されていますので、魑魅魍魎の世界でも自分が正しいと思うものを見つけることができます。なかなか、いまの世の中、読書をしている時間もないでしょう。でも、それをしないと、死ぬまで魑魅魍魎の世界で振り回されて、自分を見失ってしまいそうです。まして世の中を俯瞰することなどできないでしょう。